この映画は-
 оチャールズ・リンドバーグ(191cm,1902年-1974年(72歳没))
 -という、
 о冒険家
 -の物語。
★翼よ! あれが巴里の灯だ(ジェームズ・ステュアート,1957年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
翼よ! あれが巴里の灯だ
The Spirit of St. Louis
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:チャールズ・レデラー
ウェンデル・メイズ
ビリー・ワイルダー
原作:チャールズ・リンドバーグ
製作:リーランド・ヘイワード
出演者:ジェームズ・ステュアート
音楽:フランツ・ワックスマン
撮影:ロバート・バークス・Jr
J・ペバレル・マーレイ
編集:アーサー・P・シュミット
配給:ワーナー・ブラザース
公開:アメリカ合衆国 1957年4月20日
日本 1957年8月15日
上映時間:138分
製作国:アメリカ合衆国
言語:英語
製作費:600万ドル
配給収入:1億1917万円 日本
『翼よ! あれが巴里の灯だ』(つばさよ! あれがパリのひだ、英: The Spirit of St. Louis)は、1957年のチャールズ・リンドバーグの伝記映画。ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・ステュアート主演。脚本はチャールズ・レデラー、ウェンデル・メイズおよびビリー・ワイルダーで、1954年にピューリッツァー賞を獲得した、リンドバーグの著作『The Spirit of St. Louis』を原作とする
映画はリンドバーグのライアンNYP単葉機「スピリットオブセントルイス」号による歴史的な大西洋横断飛行を、1927年5月20日のニューヨーク、ルーズベルト飛行場の離陸から、5月21日にパリのル・ブルジェ空港に着陸するまで描く
目次
1 あらすじ
2 キャスト
3 製作
4 反響
5 表彰
6 資料
7 外部リンク
あらすじ
映画はリンドバーグの歴史的な飛行の前夜から始まり、いくつものフラッシュバックによって、1923年の初めての単独飛行で始まる彼の飛行キャリアを物語る。曲技飛行団での日々、陸軍での飛行訓練、飛行教官・郵便機パイロットとしての飛行、不調に終わったコロンビア航空社からのベランカ機購入交渉、セントルイス商工会議所からの資金援助の獲得、スピリットオブセントルイス号の設計と製作、等々である。
困難な離陸のあと、リンドバーグは睡眠不足や機体の着氷と戦い、推測航法で苦闘する。そこに、「バド」・ガーニーと組んでの愛機ジェニーによる旅回りや、ブルックス飛行場での陸軍飛行士としての訓練など、飛行士としての初期のエピソードが描かれる。飛行中に操縦席に入り込んだ蠅や、天井のコンパスを見るために見物の少女から貰い受けた鏡のエピソードも有名である。
そしてついにアイルランドのディングル湾で陸地にたどりつき、プリマス上空を飛んでイギリス海峡を横断、英雄の歓迎に沸くパリのル・ブルジェ空港に到着する
キャスト
役名 :俳優 :日本語吹替
テレビ版1 :テレビ版2 :テレビ版3
チャールズ・A・「スリム」・リンドバーグ :ジェームズ・ステュアート :垂水悟郎 :柴俊夫 :高岡健二
ベンジャミン・フランク・マホニー(ライアン社社長):バーレット・ロビンソン :高城淳一
ドナルド・A・ホール(ライアン社主任技師):アーサー・スペース
鏡の少女 :パトリシア・スミス :山崎左度子
ハーラン・A・「バド」・ガーニー :マーレイ・ハミルトン
ハスマン神父 :マーク・コネリー
O・W・シュルツ(サスペンダーのセールスマン):チャールズ・ワッツ
テレビ版1:初回放送1972年1月2日 NHK『劇映画』
テレビ版3:テレビ東京
1955年8月に製作にかかったとき、ジャック・ワーナーはリンドバーク役をジョン・カーに打診したがカーはそれを断った
ジェームズ・ステュアートがその47歳という年齢にもかかわらず、すでに1954年という早い段階からリンドバーグの役を演じたいとワーナーブラザーズ経営陣に働きかけ、のみならず熱心なダイエットと節制をして1927年当時のリンドバーグ(その時リンドバーグは25歳だった)の外見に近づけようとしていたことは多くの情報源によって知られているステュアートには、年齢を重ねた当時にあっても変わらない、生涯を通じてのリンドバーグと飛行への情熱があり、それは、彼の若い頃の「ローンイーグル(リンドバーグの愛称)」のこの飛行が最大のきっかけとなっていたのだった。そしてそれこそが彼に飛行士としての道を歩ませていたのである。ステュアートは結局リンドバーグの役を射止めたが、その年齢は製作後の批評の格好の標的となった
製作
大西洋横断飛行を忠実に再現するために、ヨーロッパやスタジオなど各所での撮影用としてスピリットオブセントルイス号の複製が3機製作された。そのうち2機はまだ飛行可能な状態で、1機はミシガン州ディアボーンのヘンリー・フォード博物館に展示されており、もう1機はウィスコンシン州オシュコシュのEAAエアベンチャー博物館にある。映画の撮影は、現在はアラン・ハンコックカレッジの敷地になっている、カリフォルニア州サンタマリアにあったサンタマリア・パブリック空港で行われた。
反響
映画が20ヶ月にわたる製作期間の後1957年4月に公開されると、主に当初予算の2倍以上という莫大な制作費による興行上の失敗について、さまざまな評価を受けた。しかし、その特殊効果とジェームズ・ステュアートの優れた演技については賞賛された。『タイム』誌は1957年にこの映画についてこう書いている。
ステュアートは、48歳の若者として、その俳優としてのすべてを投じて、全世界がその時に何を感じたかを間断なく観客に示すことに成功しているリンドバーグの飛行が、単なる飛行機狂の若者の無鉄砲な冒険などでなく、一人の勇者が、それまでのすべての進歩と同じく、全人類に対して新たな可能性を証明した魂の旅であったことを。」
後にこの映画はその輝きを幾分回復することができた。そして現代ではリンドバーグの性格描写と、記録的な飛行の準備に関する秩序立った描写に再評価がなされている。スミソニアン協会はこの映画を古典シリーズの一部として最近上映し、「魅力的で」「緊迫感のある」ものとしてDVD化も行われた。
表彰
1958年のアカデミー賞で、ルイス・リキテンフィールドは最優秀効果賞にノミネートされた。また、AFIの「感動の映画ベスト100」にも69位にランクされた。
資料
脚注
^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)139頁
^ 日本ではその短縮版の翻訳が『翼よあれがパリの灯だ - 大西洋横断飛行の回想』のタイトルで1955年に出版共同社から刊行されている。「翼よあれがパリの灯だ」は日本では度々リンドバーグの言葉と誤解されているが、元はこの1955年の抄訳を手掛けた翻訳家の佐藤亮一が附した題名であり、映画の邦題もこれを踏まえてアレンジした(「!」を挿入し、パリを「巴里」と漢字書きにした)ものである。
^ “アーカイブス放送履歴”. NHK. 2018年3月4日閲覧。
^ 関係者ツイートより
^ Pickard 1993, p. 176. これについては、ジェームズ・ディーンに関わる都市伝説がある。1955年中頃に映画『ジャイアンツ』を撮り終えた後、ジェームズ・ディーンがチャールズ・リンドバーグの役を演ずるよう依頼されたというものである。しかし、『翼よ!あれが巴里の灯だ』の撮影開始前、1955年9月30日にディーンは自動事故で死亡した。死亡の時点でディーンは25歳であり、大西洋横断飛行をした時点のリンドバーグと同じ年齢だった
^ IMDB entry and DVD liner notes
^ ステュアートは第二次世界大戦中、実際に爆撃機のパイロットとして従軍しており、大佐まで昇進している(最終階級は予備役空軍准将)
外部リンク
The Spirit of St. Louis DVD
NY Times 1957 Bosley Crowther Review
Article at Turner Classic Movies website
Medal of Honor Recipients on Film
翼よ! あれが巴里の灯だ - allcinema
翼よ! あれが巴里の灯だ - KINENOTE
The Spirit of St. Louis - オールムービー(英語)
The Spirit of St. Louis - インターネット・ムービー・データベース(英語)

ビリー・ワイルダー監督作品
1940年代
少佐と少女(1942)
熱砂の秘密(1943)
深夜の告白(1944)
失われた週末(1945)
皇帝円舞曲(1948)
異国の出来事(1948)
1950年代
サンセット大通り(1950)
地獄の英雄(1951)
第十七捕虜収容所(1953)
麗しのサブリナ(1954)
七年目の浮気(1955)
翼よ! あれが巴里の灯だ(1957)
昼下りの情事(1957)
情婦(1957)
お熱いのがお好き(1959)

1960年代
アパートの鍵貸します(1960)
ワン・ツー・スリー(1962)
あなただけ今晩は(1963)
ねぇ!キスしてよ(1964)
恋人よ帰れ!わが胸に(1966)
1970年代
シャーロック・ホームズの冒険(1970)
お熱い夜をあなたに(1972)
フロント・ページ(1974)
悲愁(1978)
1980年代
バディ・バディ(1981)
カテゴリ:
1957年の映画
航空映画
アメリカ合衆国の伝記映画
アメリカ合衆国の冒険映画
パリを舞台とした映画作品
テキサス州を舞台とした映画作品
ニューヨーク州を舞台とした映画作品
セントルイスを舞台とした映画作品
ビリー・ワイルダーの監督映画
フランツ・ワックスマンの作曲映画

 -チャールズ・リンドバーグ(191cm,1902年-1974年(72歳没))は、
 о“製作費:600万ドル”
 о“The Spirit of St. Louis”
 о“1957年のチャールズ・リンドバーグの伝記映画”
 о“ジェームズ・ステュアート主演”
 о“1954年にピューリッツァー賞を獲得”
 о“リンドバーグの著作『The Spirit of St. Louis』を原作とする”
 о“映画はリンドバーグのライアンNYP単葉機「スピリットオブセントルイス」号による歴史的な大西洋横断飛行を、1927年5月20日のニューヨーク、ルーズベルト飛行場の離陸から、5月21日にパリのル・ブルジェ空港に着陸するまで描く”
 о“曲技飛行団での日々、陸軍での飛行訓練、飛行教官・郵便機パイロットとしての飛行、不調に終わったコロンビア航空社からのベランカ機購入交渉、セントルイス商工会議所からの資金援助の獲得、スピリットオブセントルイス号の設計と製作”
 о“困難な離陸のあと、リンドバーグは睡眠不足や機体の着氷と戦い、推測航法で苦闘する”
 о“飛行中に操縦席に入り込んだ蠅や、天井のコンパスを見るために見物の少女から貰い受けた鏡のエピソード”
 о“アイルランドのディングル湾で陸地にたどりつき、プリマス上空を飛んでイギリス海峡を横断、英雄の歓迎に沸くパリのル・ブルジェ空港に到着する”
 о“チャールズ・A・「スリム」・リンドバーグ :ジェームズ・ステュアート”
 о“1955年8月に製作にかかったとき、ジャック・ワーナーはリンドバーク役をジョン・カーに打診したがカーはそれを断った”
 о“ジェームズ・ステュアートがその47歳という年齢にもかかわらず、すでに1954年という早い段階からリンドバーグの役を演じたいとワーナーブラザーズ経営陣に働きかけ、のみならず熱心なダイエットと節制をして1927年当時のリンドバーグ(その時リンドバーグは25歳だった)の外見に近づけようとしていたことは多くの情報源によって知られている”
 о“ステュアートには、年齢を重ねた当時にあっても変わらない、生涯を通じてのリンドバーグと飛行への情熱があり、それは、彼の若い頃の「ローンイーグル(リンドバーグの愛称)」のこの飛行が最大のきっかけとなっていた”
 о“ステュアートは結局リンドバーグの役を射止めたが、その年齢は製作後の批評の格好の標的となった”
 о“映画が20ヶ月にわたる製作期間の後1957年4月に公開されると、主に当初予算の2倍以上という莫大な制作費による興行上の失敗について、さまざまな評価を受けた”
 о“特殊効果とジェームズ・ステュアートの優れた演技については賞賛された”
 о“ステュアートは、48歳の若者として、その俳優としてのすべてを投じて、全世界がその時に何を感じたかを間断なく観客に示すことに成功している”
 о“リンドバーグの飛行が、単なる飛行機狂の若者の無鉄砲な冒険などでなく、一人の勇者が、それまでのすべての進歩と同じく、全人類に対して新たな可能性を証明した魂の旅であった”
 о“1958年のアカデミー賞で、ルイス・リキテンフィールドは最優秀効果賞にノミネートされた”
 о“ステュアートは第二次世界大戦中、実際に爆撃機のパイロットとして従軍しており、大佐まで昇進している(最終階級は予備役空軍准将)”
 о“死亡の時点でディーンは25歳であり、大西洋横断飛行をした時点のリンドバーグと同じ年齢だった”
 о“麗しのサブリナ(1954)”
 о“七年目の浮気(1955)”
 о“翼よ! あれが巴里の灯だ(1957)”
 о“昼下りの情事(1957)”
 о“情婦(1957)”
 о“お熱いのがお好き(1959)”
 о“アパートの鍵貸します(1960)”
 о“シャーロック・ホームズの冒険(1970)”
 о“悲愁(1978)”
 -と並ぶ、
 оビリー・ワイルダー監督作品
 -だ。
★翼よ!あれが巴里の灯だ(1957年)映画-Movie Walker
https://movie.walkerplus.com/mv5981/
翼よ!あれが巴里の灯だ
1957年8月15日(木)公開
作品情報
世界最初の大西洋横断無着陸飛行の成功者チャールズ・A・リンドバーグの同名の自伝回想録の映画化。「七年目の浮気」のビリー・ワイルダーと、ウェンデル・メイスが共同脚色、「紳士は金髪がお好き(1953)」のチャールズ・レデラーが脚色、ワイルダーが監督した。撮影監督は「間違えられた男」のロバート・バークスと「太鼓の響き」のペヴァレル・マーレイ、空中場面はトーマス・タットワイラーが担当した。音楽は「地獄の翼」のフランツ・ワックスマンが作曲指揮、レオニード・ラーブが編曲した。主演は「知りすぎていた男」のジェームズ・スチュアート。バートレット・ロビンソン、パトリシア・スミス、マーク・コネリーなどが助演する。なお「シネラマ・世界の七不思議」の監督の1人、飛行家のポール・マンツが空中場面の監修をしている。
映画のストーリー結末の記載を含むものもあります。
1926年、ニューヨーク~パリ無着陸飛行の最初の成功者に与える25000ドルのオーテエイグ賞の設定が発表される若きリンドバーグ(ジェームズ・スチュアート)はそれを目指し、セントルイス飛行クラブ会長ナイト氏とともに、町の実業家を訪ねて資金の寄付をあおぐ銀行の頭取など町の有力者たちは経済上の支援者となり、飛行機の名は郷土の名をとって「セントルイス魂号」と名づけられた。が、肝心の飛行機は、これから買わなければない。まず見つけたニューヨーク、コロンビア航空会社のベランカ機は、操縦者のリンドバーグが無名だという理由で、買取を拒絶される。失意のリンドバーグは次に後援者の紹介で、カリフォルニア州サン・ディエゴの小工場ライアン航空会社を訪れる工場長マホニーと設計主任ホールは、幸い彼の申し出を快諾する。時に1927年3月、ラジオは、バード中佐ら数名のアメリカ側、ナンジェッセとコリーラのフランス側の飛行家たちが、多発機で横断飛行準備中と伝えていた。ぐずぐずしていれば、誰かに先を越される。リンドバーグの頼みで、マホニーらは大急ぎで飛行機を完成させる。それに乗ったリンドバーグは直ちにセントルイスへ戻る。が折も折、パリを発ったナンジェッセとコリーが、大洋上で行方不明となる。この不祥事に後援者たちはリンドバーグの身を心配し、横断飛行を中止しようとする。しかし固い決意のリンドバーグは、発進地ニューヨークのルーズヴェルト飛行場に向かう。5月19日、その日は天候が乱れていた。いよいよ20日、午前7時52分、雨で荒れた飛行場から多くの人の声援に送られ、リンドバーグは3600万マイル彼方のパリを目指して飛び立った大圏コースをたどり正午までにノヴァ・スコティアの上空を通過、濃霧に悩まされながらも「セントルイス魂号」は、好調の飛行を続けた。だが前夜一睡もできなかったリンドバーグは、度々睡魔に襲われる。睡魔と戦う彼の頭には、最初の単独飛行のこと、空中サーカスで曲乗師をやっていたことなどが、走馬燈の絵のように続く。アメリカ大陸を後に、機は大西洋上にかかった。夜になりニューファウンドランド東方に来たとき雷雲層に入り、突然、機は凍結し始めるようやく大迂回して機の氷を叩き落としたが、リンドバーグは完全に疲れ切った。しかし夜が明け2日目、遂にアイルランドの緑の海岸を発見、彼は最後の力を振い起した。そして不休51時間の末、遂に機は日没のパリに近づき、サーチライトの煌々と光るル・ブールジェ飛行場に、世紀の着陸を遂げる所要時間33時間39分20秒。リンドバーグは何十万の観衆の歓呼に迎えられた。そしてニューヨークに帰った彼は、400万の市民に迎えられて輝かしい壮挙を讃えられた
作品データ
原題 The Spirit of St. Louis
製作年 1956年
製作国 アメリカ
配給 ワーナー・ブラザース
上映時間 0分
スタッフ
製作 リーランド・ヘイワード
監督 ビリー・ワイルダー
脚本 ビリー・ワイルダー 、 ウェンデル・メイス
脚色 チャールズ・レデラー
原作 チャールズ・A・リンドバーグ
撮影 ロバート・バークス 、 ペヴァレル・マーレイ
空中撮影 トーマス・タットワイラー
音楽 フランツ・ワックスマン
編曲 レオニード・ラーブ
技術顧問 Major General Victor Bertrandias 、 Halan A. Gurney 、 ポール・マンツ
キャスト
Charles_A._Lindbergh ジェームズ・スチュアート
Bud_Gurney マーレイ・ハミルトン
Mirror_Girl パトリシア・スミス
B._F._Mahoney バートレット・ロビンソン
Father_Hussman マーク・コネリー
Donald_Hall アーサー・スペイス
O._W._Schultz チャールズ・ワッツ
Harry_Night ロバート・コンウェイト

 -チャールズ・リンドバーグ(191cm,1902年-1974年(72歳没))は、
 о“世界最初の大西洋横断無着陸飛行の成功者チャールズ・A・リンドバーグの同名の自伝回想録の映画化”
 о“主演は「知りすぎていた男」のジェームズ・スチュアート”
 о“1926年、ニューヨーク~パリ無着陸飛行の最初の成功者に与える25000ドルのオーテエイグ賞の設定が発表される”
 о“若きリンドバーグ(ジェームズ・スチュアート)はそれを目指し、セントルイス飛行クラブ会長ナイト氏とともに、町の実業家を訪ねて資金の寄付をあおぐ”
 о“銀行の頭取など町の有力者たちは経済上の支援者となり、飛行機の名は郷土の名をとって「セントルイス魂号」と名づけられた”
 о“リンドバーグは次に後援者の紹介で、カリフォルニア州サン・ディエゴの小工場ライアン航空会社を訪れる”
 о“工場長マホニーと設計主任ホールは、幸い彼の申し出を快諾する”
 о“リンドバーグの頼みで、マホニーらは大急ぎで飛行機を完成させる”
 о“パリを発ったナンジェッセとコリーが、大洋上で行方不明となる”
 о“リンドバーグは、発進地ニューヨークのルーズヴェルト飛行場に向かう”
 о“20日、午前7時52分、雨で荒れた飛行場から多くの人の声援に送られ、リンドバーグは3600万マイル彼方のパリを目指して飛び立った”
 о“大圏コースをたどり正午までにノヴァ・スコティアの上空を通過、濃霧に悩まされながらも「セントルイス魂号」は、好調の飛行を続けた”
 о“リンドバーグは、度々睡魔に襲われる”
 о“夜になりニューファウンドランド東方に来たとき雷雲層に入り、突然、機は凍結し始める”
 о“ようやく大迂回して機の氷を叩き落としたが、リンドバーグは完全に疲れ切った”
 о“夜が明け2日目、遂にアイルランドの緑の海岸を発見、彼は最後の力を振い起した”
 о“不休51時間の末、遂に機は日没のパリに近づき、サーチライトの煌々と光るル・ブールジェ飛行場に、世紀の着陸を遂げる”
 о“所要時間33時間39分20秒”
 о“ニューヨークに帰った彼は、400万の市民に迎えられて輝かしい壮挙を讃えられた”
 -という栄誉を得た。(つづく)<記20年7月11日>〈19,042Byte〉