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 資料収集は、まだまだつづくが-
 оこのやり切れない事件
 -は、まるで、
 о無差別通り魔事件
 -の如くであり、
 оよき人間関係を築けていた
 -という。仲がよかった人間が集落外などに居たというが、
 о虐待された
 -とは言え、
 о5人殺戮者
 -ということは、残った仲がよかった人々も、
 о監獄へ面会は行けない(死刑判決→拘置所→処刑)
 -行きたくとも行けないであろう。
 ※伊賀の上忍-
 ※о百地三太夫
 ※-や、
 ※о藤林長門守
 ※-と下忍(保見)のような話であった。
★山口県周南(しゅうなん)市で5人の遺体発見 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/yamaguchi_shunan_case/
《加害者の中学校の同級生談》
■「最後に連絡を取ったのが1年前」という保見の同級生「最後に会ったときは明るい印象しかなかった:複雑な気持ちだが、知っていることをありのまま話してほしい」
■中学3年で同じクラスだった男性会社員(63):クラスに21人いた男子の中で、身長が175センチを超えていた保見は最も背が高かった:当時135センチ前後だった会社員が同級生から背の低さをからかわれた時、保見は「何しとるんか」と割って入り、助けてくれたという:「僕のことを『マメ』と呼んで優しくしてくれた」

 -保見は、
 о上から目線
 -で、
 о見下ろす
 -という人間関係なら、築けるようであり、逆に、
 о目上の人間を尊敬する
 -という当然の、
 о敬意が払えない
 -のかも知れない?
■保見は1年時はバレーボール部に所属したものの2、3年時は部活動をしていない
■勉強は好きではなく、生徒会活動もしていなかった
■自宅は中学校から約7キロ離れた山間部の集落にあり、当時は運行していた路線バスで通学していた

 -鹿野中学校は、この21世紀に(過疎化から)、
 о全校生徒数80人
 -の超小規模中学校である。現在、
 о女子バレーボール部
 -しかなく、保見の中学生時代も、
 о男女バレーボール部が存在したか?
 -は定かではない。いずれにしても、
 о‘約7キロのバス通学’
 -ということから、
 о運動部活動など切り上げて帰宅する
 -ということが必要であったと思われる。と言っても、この頃は、
 о父親の林業
 -も細々と(輸入ラワン材に押される)続けられていた頃だろうから、どうだったかは、よく分からない。
■中学卒業後、地元を出て左官の仕事に就いた
■高度成長期で、職人の左官は日当の高さからあこがれの仕事だった
■19歳ぐらいの頃、会社員は自動車整備工をしていたが、関東にいた保見から写真2枚を添えた手紙をもらった:写真には街中で自然体で立つ保見が写っていた:「おしゃれだなと思った:僕のことを覚えてくれているとうれしくなった」

 -左官という職業を、
 о壁土塗り
 -とするなら、
 о鉄腕ダッシュのダッシュ村
 -でやっていたが、
 о一人前に壁を塗るには十年掛かる
 -ような、
 о手先の器用さ
 -というか、
 оこつ
 -が要る仕事である。要するに、
 о修行が厳しい職業のひとつである
 -と思う。
 ※さらに今時は-
 ※о土壁を塗る家は少なくなった
 ※-から、やがて、
 ※о左官だけでは食って行けなくなった
 ※-のであり、
 ※о建築補助のいろいろなことをやらざるを得なかった
 ※-と思われる。
■最後に会ったのは、保見が地元にUターンする前後の十数年前:「おい、飲もうや」と電話があり、2人で周南市内のすし屋と居酒屋をはしごした:保見は関東弁になっていたが「おやじの調子が悪いから家を直さないと」と話すなど、変わっていなかった
■丸顔になり、髪の毛が薄くなった

 -元々、保見は、
 о髪が薄かった
 -と思うが、
 о他人(ひと)の髪まで覚えていた
 -ということは、
 оいじめられっ子の救済者だった
 -というインパクトなのかも知れない?
 とにかく-
 о腕力は強かった
 -ということであろう。「おやじの調子が悪いから」と、
 о「家を直さないと」
 -は関係ないと思うが、
 о貯金があった(ちまちまと貯めていた)
 -ということであろう。
■集落外の人とは目立ったトラブルはなく、自宅に立ち寄った際にコーヒーを勧められたことがあるという60代男性「フレンドリーで根はやさしいと思っていた:ただ、集落では年が離れている人が多く、話題も違うし溶け込めなかったのではないか」
 -まあ、これからは、
 о他人(ひと)には愛想うよく接しよう
 -と心掛けていたというところであろう?
 だが-
 о正体を知られた人間たちは警戒した
 -のであり、それで、
 оぎこちなくなった
 -のであろう。この裏表は、
 оよくあること
 -である。
《限界集落》
о数十年前、商店が並び、小学校もあったという周南(しゅうなん)市金峰(みたけ)の郷(ごう)地区は、市中心部から車で約45分、くねくねした狭い山道を進んだところにある。人口は流出し「限界集落」に。市によると、6月時点で8世帯の25~90歳の男女14人が約600メートルの道路沿いで生活し、65歳以上が10人を占める

 -‘限界集落’に於ける村おこしとは、
 о温泉で観光客を呼び込む
 -というようなものではなかろう。
★限界集落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になっている集落を指す、日本における概念
「限界自治体」
「準限界集落」→「限界集落」→「超限界集落」→「消滅集落」

 -‘郷(ごう)’集落は、
 о65歳未満が4人
 -ということだから、今回の保見中事件で、
 о65歳以上の10人→5人
 -と、
 о65歳未満の4人→3人
 -に減ったというから、
 о「超限界集落」への転落は免れた
 -というところであろうか?
《周南(しゅうなん)市金峰(みたけ)杣(そま)の里交流館》
о2006(平成18)年頃、廃校となった小学校の跡地に交流館が建てられた。当初は花見や祭りなどの活動拠点となった。近くに住む男性は「この辺は家族のようなもの。みんな顔を知っていて、グラウンドゴルフをしたり、花を植えたりしていた」:最近は交流館の手入れはされなくなった:市関係者は「全く活動している様子がなくなった。関係が希薄になっていたのかもしれない」

 -‘杣(そま)’とは、
 о御用(山)林
 -のことであり、
 о作所
 -が置かれ、
 о杣司・
 о杣工(そまたくみ)・杣人(そまびと)・杣夫(そまふ)
 о筏師
 о木守(木津)
 -を担った。これらの人々は、
 о焼畑農業
 -も行い、
 о柴や薪
 о炭焼き
 о狩猟
 -も行った。‘杣(そま)’は無論のこと、
 о「山口祭(やまぐちさい)」:山口県の祭りではなくて、平地の人々が伐木その他山林の資源を採取するに際して,山林に立ち入る通路の入口で山の神を祭り,行動の安全と立入りの許可を祈願すること:遷宮の最初の祭り
 -という儀式が必須とされた。わが国では、
 о「山人(やまびと)」
 -と、
 о海人(あま):[系統と分布]日本民族の形成過程のなかで,かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり,インド・チャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。前者は,古典にみえる阿曇(あずみ)系およびその傍系である住吉系漁労民で,シナ南部の閩越(びんえつ)地方の漂海民の系統をひき,東シナ海を北上し,山東半島から遼東半島,さらに朝鮮半島西海岸を南下し,多島海,済州島方面を経て玄界灘に達する経路をたどったと推定される《コトバンク》
 -と、おそらく、
 о農人(最も形成が遅かったデルタ住民)
 -とか分化したと考えられる。
 ※-伐採・製材などを行う‘杣(そま)’から、
 ※о日用(ひよ)/日傭(ひよう):木材の山出しから筏送りまでの搬出を担当
 ※-や、
 ※о木挽(こびき):製材を専門に行う
 ※-などが分業化して、
 ※о「組」
 ※-がという組織が形成されて、
 ※о組頭・庄屋・杣頭
 ※-が指導者だった。したがって、石村家が「杣組頭(そまくみがしら)」なら、
 ※о農民の地主と小作人以上の結びつきがあった
 ※-ということが考えられる。■<記13年8月5日>