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 支那の中原支配も日本列島支配も-
 оモンゴル高原支配
 -や、
 о満州高原支配
 -すら朝鮮人の仕業だという。そんな大日本帝国の版図並みの広大な版図を持っていた朝鮮人が、そのほとんどを失ってしまい朝鮮半島南部に閉じ込められてしまった。
▼JOG(261) 朝鮮製トンデモ日本史
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog261.html
■5.日本は朝鮮民族が作った国!?■
朝鮮製トンデモ日本史はまだまだ続く。玄ギョンビンの「朝鮮人は偉大な朝鮮を望む」(1992)は、日本の古代から近世までの歴史を次のように説明する。

 -『日本は朝鮮民族が作った国』というのは正しくない。古代日本の支配層は、
 о朝鮮人
 -ということ、すなわち、
 о日本の天皇は朝鮮人
 -という部分は正しい。だが日本民族という多様な民族は多くは、
 о弥生人ではなく縄文人の子孫である
 -ということだ。弥生人は平べったい朝鮮顔である。
日本は7世紀未から国家形成期に入った。
 -この説も正しいだろうが、
 о【謎】の7世紀以前の日本列島(関東以西)
 -の話を飛ばしてしまっている。日本を【謎】の7世紀以降から語るのは余りにもお粗末な歴史観だ。
それ以前の日本は三韓・伽や(ニンベンに椰のつくりの部分)・百済などが自分の領土の一部として統治してきた。
 -【謎】の1世紀~7世紀までの日本列島は偉大なる朝鮮三国などの植民地であったとするが、それは、
 о任那日本府
 -という名称がわずかに、この説の正当性を主張するに過ぎない。鉄製農具や武器の製造は、
 о朝鮮半島の森林が絶えた
 -後に、
 о出雲地方など倭列島に移った
 -と思われた。陶磁器のシフトは秀吉の時代以降のことだった。どちらも薪がなければ成立しない。ただし朝鮮半島南部も、
 оモンスーン気候
 -であったが、
 о朝鮮半島南部は低湿地帯だった
 -という。
660年、百済が滅亡し、その後裔らが続けて行った〈百済〉復興運動が失敗するや日本列島は自らの歴史期に入ったのだ。
 -これは、
 о白村江の戦い
 -のことだろうか?
 以下に『日王』が登場する。日本の<国粋主義者>が王に過ぎないのに-
 о大王(おおきみ)
 -とか、
 о天皇(おおきみ・みめらみこと)
 -と称する『日王』のことだ。『日王』は、
 о『高句麗系』
 о『百済系』
 о『新羅系』
 -という三派に分かれるという。
夫餘氏家門が日王家〔天皇家―引用者注)を形成し、新羅系・百済系・高句麗系が武力で王族や貴族集団を構築した。
彼らは新しい文化や伝統を普及させる一方で、土着原住民を制圧し、列島全域へと勢力を広げ、支配力を確保して日本を建設した。

 -日本列島の『土着原住民』とは縄文人と言われる人々のことだろうか?
 『列島全域』と嘘臭いが関東辺りまでなら、うなづける。ただし-
 о日本を建設した
 -と云われてしまうと、わたしは【謎】の7世紀には日本は完成していないと思っているから眉唾ものだと思うしかない。
■6.皇室のルーツは百済!?■
最初に日本を支配した天皇は、百済人の末裔である15代・応神天皇(4世紀)と仁徳天皇(5世紀)父子であった。
(中略)6世紀に百済の武寧王の弟が26代・継体天皇になった以後、百済の王族が7世紀末まで即位した。百済の聖王もやはり日本の天皇であるという主張がある。百済の聖王が540年に高句麗を攻撃して失敗し、540年に日本に渡って29代・欽明天皇になったというもの。33代・推古天皇(6世紀末~7世紀初)は、百済の王族の純粋な血統を引く日本最初の正式な女王である。その夫・敏達天皇(6世紀)も百済人王族である。

 -ここでいう、
 о百済の武寧王の弟=継体天皇(小林惠子説では、継体=新羅・智証麻立干)
 о百済の聖王=欽明天皇
 -という倭列島と朝鮮半島の区別がない王説はうなづけるが、
 о連綿たる王統の“即位”説
 -は、いただけない。そもそも、
 о古代に王が存在しなければならない
 -と誰が決めたか?
 古代は男尊女卑の儒教思想圏支那以外は女帝も存在し、ここでは-
 о推古天皇=百済の王族の純粋な血統を引く日本最初の正式な女王(※)
 ※小林惠子説では-
 ※о推古(炊屋姫)は即位せず(百済の王族の純粋な血統を引く日本最初の正式な女王ではない)
 ※о敏達=百済・威徳王
 ※-ということになっている。小林惠子説では、
 ※о崇峻(泊瀬部皇子)即位せず
 ※о上宮法王(ペルシア→西突厥・達頭・聖徳太子)即位大王
 ※-ということになっている。
 この【大朝鮮帝国史】のストーリーでは要するに-
 о朝鮮の倭支配なら何でもよい
 -という、いい加減なものだ。
日本の皇室のルーツが朝鮮にあった、というトンデモ史観は、朝鮮内で広く信じ込まれているそうな。ついにそれを「日王家」自身が認めた、やっぱり、という事なのだろう。本当にそう信じるなら、皇室は朝鮮民族最古の王族家系なのだから、「偉大なる朝鮮民族の象徴」として尊崇してしかるべきだろう。
もちろん朝鮮の学界では、こんなトンデモ史観はほとんど支持されていない。朝鮮での日本古代史の権威・高麗大学の金鉉球教授は、「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出てきているが、史料の恣意的な解釈など歴史研究者の立場から見るとき学問的成果として受け入れられない」と述べている。

 -桓武までは、おかしいが天皇の先祖は、われわれ日本人を形成する平民とは違って純潔度の高かった朝鮮人であるということは確実であろう。それは決して【トンデモ史観】ではない。要は、
 о日本の<国粋主義者>には大変に都合が悪い事実
 -というだけのことだ。わたしにとっては皇室だろうが藤原宗家だろうが、現代に残る名家の多くの人々が、
 о支那・朝鮮・遼東・沿海州・満州からの帰化人
 -とて別段どうということはない。ただ混血で粉々になってしまった日本人たちが、
 о朝鮮人の血統を近親婚までして守ってきたY染色体の皇統
 -というと、
 о皇室の廃止(節税)
 -に走る可能性は高いと思うから日本の<国粋主義者>には大変に都合が悪い事実になるだろう。
■7.万葉集は朝鮮語で書かれている!?■
しかし朝鮮の逞しいトンデモ歴史家たちは、その程度ではへこたれない。作家・李寧熙は、「もう一つの万葉集」で、万葉集の歌が朝鮮語で解読できるという「学説」をうちだした。
たとえば、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に次のようなものがある。
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念秋の野のみ草刈(か)り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治(うじ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ(秋の野のみ草を刈って屋根を葺いて、泊まった宇治の宮処の仮の宿のことが思い出される。)
これが李寧熙にかかると、朝鮮語で次のような意味になるという。
新羅よ 刀研いで注ぎ 締め苦しむなかれお上の都は 刀が 来るから来襲に備えよこれは百済人である舒明天皇が、新羅の攻撃に備えよと百済に警告するために、額田王に作らせた歌であったという。どうしてこんな訳が出てくるのか、第2句「美草苅葺」のみ見てみると:
「美」は朝鮮語音読で「ミ」、「草」は「セ」で「ミセ」は「ムセ」に通じ「鋳物の鉄」を意味する。「苅」は日本語訓読で「カリ」。これは朝鮮語「カルダ」(磨く)の語幹「カル」。「葺」は日本語訓読で「フキ」。これは朝鮮語「ブッキ(注ぐ)」を表す、、、。
朝鮮語と日本語の音訓を見境なく持ち出して、それを適当に変形して朝鮮語にこじつけている。それも「葺」は別の歌では語尾「ジ」を意味する、などと一貫性がない。李寧熙のトンデモ「学説」は日韓の学界ではまったく相手にされていないが、以後、このアイデアを真似て、万葉集や日本書紀を朝鮮語で解読しようとするトンデモ歴史家が後を絶たず、半ば「定説化」してしまったという。

 -万葉集は朝鮮語で読めるという話は眉唾ではないと思うが、ここでは取り上げない。引用するだけに留める。(つづく)<記10年5月1日>