イメージ 1

 大朝鮮人はどうやら-
 о遼東から満州地域(沿海州)
 -の広大な領域を支配した、
 о高句麗
 -とか、
 о渤海
 -までも大朝鮮帝国史としておるのみならず、
 о北韓(平壌中心)
 -を、むしろ大朝鮮帝国としており現在の南韓を否定しているように見える。
★満州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
支那東北三省(濃い赤)、東四盟+旧熱河省の一部(赤)、外満州(薄い赤)
満州(Manju)は、支那東北部およびロシア沿海州を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。曾ては、高句麗や渤海国、遼(契丹)、そして金国があった地域であり、後金・清朝を建国した満州民族の故地である。
民族名の「マンジュ」(Manchu、満州民族)は、それまでの呼称ジュシェン族(女真・女直)を改め、清朝の創始者であるホンタイジ時代に自称し、国名をマンジュ・グルン(満洲国)としたことによる。
「満洲」が地名の意味を持ったきっかけは、この地域が清の支配民族の満州民族の居住地域であったことから、西欧語で「マンチュリア」(Manchuria)と呼ばれるようになったからである。
歴史的にこの地域はモンゴル系・ツングース系の北方諸民族の興亡の場であった。紀元前1世紀から紀元7世紀まで高句麗が存在した。
古代の支那ではこの地域は中華文化圏とは認めず、東夷・北狄の侵入を防ぐために万里の長城を築いて遮断されたことにより「封禁の地」、明代に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。

 -高句麗は版図が広く沿海州やモンゴルまでを含む満州を支配した。
★北満洲(外満州)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
外満州(Outer Manchuria、北満洲ともいい、支那では「外東北、北鮮卑」と呼ばれる)
外満州という地域は外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南・黒竜江(アムール川)以北・ウスリー川以東の地域を指し、今日のロシア連邦の沿海地方、アムール州、ユダヤ自治州、およびハバロフスク地方南部に相当する。
外満州に対し、普通単に「満州」と呼ばれている支那領の満州(支那東北部)を「内満州(Inner Manchuria)」と呼ぶこともある。
古代にはさまざまな民族がこの地に住んでいた。最初期の住人は勿吉・靺鞨や、その他粛慎・?翠婁・女真といったツングース系民族だった。また、高句麗や渤海といった国家が満州から外満州、朝鮮半島北部にまで領域を伸ばした。遼、元、明、清といった支那の歴代王朝は女真などツングース系民族をコントロールする役所を外満州の各所に置いた。

 -渤海は、むしろ沿海州を本拠とした。
▼大朝鮮帝国史
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/jushin.htm
新羅王子 天日槍の倭列島攻略以後、本州地方をめぐる百済,新羅の間の争いが激化したのだが、高句麗もコンボルを根拠地に勢力争いに飛び込み、倭列島は戦火に包まれ、これを解決するために百済は景行王を派遣した。
* 三国遺事の延烏郎・細烏女の説話は、新羅に滅ぼされた馬韓遺民の倭列島移住を示し、この細烏女がまさに卑弥呼であり、その娘が神功皇后である。

 -この≪コンボル≫と、どこか分からない。≪景行王≫も特定できない。ここでは、
 о細烏女=卑弥呼
 -であり新羅征伐の、
 о神功皇后=卑弥呼の娘
 -としている。
* 海上帝国を成していた沸流百済は、高句麗の広開土大王の侵攻によって本国の熊津(コムナル)を奪われて日本地域へ避難したのだが、この人が応神天皇である。 応神は奈良百済を建て、そこを中心に本国の古莫那羅(コムナル)百済を支配した
 -どうも南韓人は、
 о遼東から満州という現支那版図
 -を自らのものとして正史として教えているようだ。だが地図を描けば、その“ウソ”はすぐにバレる。おもしろいことに、
 о沸流(ビリュ)百済
 о熊津(コムナル)=古莫那羅(コムナル)百済→(奈良百済)
 -と大朝鮮帝国史は新羅よりも百済を肯定している(笑)。
第3巻
古莫那羅百済の混乱に乗じて、新羅は倭列島における勢力挽回を試みた。
この時、新羅の主導でなされた日本の改革がいわゆる大化の改新
である。

 -新羅の金春秋らの大活躍(百済・高句麗への裏切り)を書いているが、
 оどのように?
 -かは分からない。
* 扶餘の遷都後、内政を整備した百済が新羅を圧迫すると、新羅は高句麗の中原統一のための全民族的協力の提議を退け、唐と共謀して百済を滅亡させた。
* 本国百済の滅亡を見た奈良百済は、全国力を動員して本国の復興を試みたが、派遣軍と本国の紅旗軍との不和で失敗した。
<省略>
* 高句麗は淵蓋蘇文の死亡後、その息子たちの間で権力争いが起き、権力の座から追い出された男生が唐の軍隊を呼び入れることで、あっけなく自滅してしまった。

 -大朝鮮帝国史では、
 о扶餘(プヨ)
 о高句麗(コクリョ)
 -から韓族(朝鮮族)を肯定している。
* 高句麗の自滅後、その遺将である大祚栄,李尽忠などが協力、唐に対抗しながら民族復興を掲げて、勃海を建国した。
第4巻 北方帝国の興亡盛衰
大氏高句麗の立国
* 昔の高句麗を導いていた高氏たちが積極的に新政府に参加することで、大氏高句麗はすぐに安定を取り戻すようになったが、北国の強力な黒水部との交渉は結局失敗に帰してしまった。
* 大祚栄は組閣を断行し、太子 大武芸を送って唐と相互承認協定を結んだ後、皇帝の母方のおじである大武芸を駐唐初代大使として派遣した。
* 西暦719年、祚栄の後を継いで大武芸が帝位に昇った。 皆が新皇帝の即位を祝賀したが、帝位を狙っていた大門芸は逆謀を試み、これに失敗すると唐へ逃げた。 この渦中で逆謀に関わっていた黒水部の可汗イェソクリギが処刑され、これで困難にも民族統一は達成できた。
大唐懲罰戦争
* 唐懲罰戦を繰り広げるのに先立って、大武芸は唐の同盟国新羅を牽制するためにコ・イニなどを日本に派遣、同盟を結び、張文休を連合軍総司令官に任命して唐朝の首を締めに行っていた中で、新羅の利敵行為によって涙を飲んで軍を撤退せざるを得なかった。
<省略>
* 西暦737年、大欽茂が第4代の帝位に登極した。 大欽茂は文治に尽力し、文化的に大きな発展を成した。 一方では、契丹人安禄山をけしかけて大唐粉砕戦を試みたが、繰り返される大燕国(西暦756年に安禄山は洛陽を占領して大燕国を建てた後、自ら王位に昇った)の内紛で、結局作戦は失敗に帰してしまった。
東夷の故地 山東半島
* 山東半島は東夷族華山族の譲歩できない戦略的要衝地であった。<省略>(この時期、大高句麗と日本との貿易も非常に活発だった。 日本の急激な文化発展はまさにこの時になされた)
<省略>
* 西暦872年、扶餘族で構成されていた契丹 迭刺部で、契丹の大英雄耶律阿保機が生まれた。 西暦901年、夷離菫(軍司令官)に昇った耶律阿保機は、西暦906年ついに待望の可汗に選出され、国民は彼を国父すなわち南韓語で父を意味するアボジ(支那の発音で阿保機はアボジ)と呼んだ。 契丹伝統の3年交代制を解除し、契丹の諸部を完全に統一したアボジは、ついに西暦916年、皇帝位に昇り、大高句麗征伐に尽力した。

 -この≪阿保機(アボジ)≫はおもしろいが、どこまで広げるのだろうか?<記09年3月21日>■