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 一連の小沢一郎の暗躍で、8党1会派が集った非自民(非共産)連立政権が成立したものの、一一ライン(新生党と公明党)の強引な政権運営を嫌った村山富市が政権を離脱した。細川内閣総辞職後に(これまた離れ業で)成立した自社さ連立政権とは何だったのか?
★第1次<非自民(非共産)連立政権>興亡年表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
○ 1993年8月5日 - 第127特別国会が召集。土井たか子、女性初の衆議院議長を勤め、議員指名に「さん付け」を実行(~1996年10月)。細川が首相に指名される。山花は国務大臣(政治改革担当)として入閣したが、同月、大敗の責任を負って党委員長を辞任すると表明
○ 1993年8月9日 - 宮沢改造内閣は、まれに見る政局大混乱の末、1955年(昭和30年)の保守合同以来の自民党長期連続政権に終止符を打つべく総辞職した。非自民・非共産8党派による細川護煕内閣発足。新生党、閣僚5人(55議席)を輩出(羽田:外務大臣)。自民党は結党以来初めての下野。55年体制が崩壊し38年ぶりの政権。細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立
○ 1993年9月 - 村山富市国会対策委員長が新委員長に当選。山花は政治改革担当相に細川内閣総辞職まで残留
○ 1993年11月18日 - 新生党、参院会派「日本新党・民主改革連合」と統一会派「日本・新生・改革連合」結成
○ 1994年1月29日 - 新生党、選挙公約の政治改革4法が成立
○ 1994年2月4日 - 新生党、参院会派「民社党・スポーツ・国民連合」と統一会派「新緑風会」結成
○ 1994年4月8日 - 細川、首相辞意表明
○ 1994年4月15日 - さきがけが次期政権での閣外協力を表明
○ 1994年4月25日 - 細川内閣総辞職。日新・民社・自由党の各党ならびに衆院会派「改革の会」と統一会派「改新」を結成
○ 1994年4月26日 - 「改新」結成に強く反発する日本社会党(村山)が連立政権から離脱
○ 1994年4月28日 - 羽田内閣が少数与党内閣として発足。首相を除く閣僚8人を輩出
○ 1994年6月25日 - 羽田内閣、総辞職。羽田連立与党は自民党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、政権復帰を目指した自民党(河野洋平総裁)は、日本社会党(村山富市委員長)・新党さきがけ(武村正義代表)と連立政権を組むことに合意した(自社さ連立政権)
○ 1994年6月30日 - 自民・社会・さきがけによる村山富市内閣が発足、政権に復帰(橋本:通商産業大臣)
○ 1994年7月20日 - 村山富市、第130回国会での所信表明演説にて「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、それまでの日本社会党の政策を転換し、日米安全保障条約体制を継続することを確認した。この際、演説用原稿では「日米安全保障体制を維持」となっていたのを、所信表明演説では村山が「日米安全保障体制を堅持」と読んだことが注目された。これは村山の出身政党である社会党にとっては“コペルニクス的転回”であった。トップダウンで決定した背景から独断専行と批判も受けたが、党は追認している
○ 1994年8月 - 山花貞夫、自社さ連立の村山内閣発足後、社会党内の中間派・右派の再結集を図る政策集団「新民主連合」を結成し会長に就任(衆参32議員が参加)。 社会党の枠を超え民主・リベラル勢力の新党結成を図る
○ 1994年8月 - 村山富市、「従軍慰安婦問題」に関して民間基金による見舞金支給の構想を発表
○ 1994年9月28日 - 新生党、衆院会派「改革」を結成
○ 1994年11月16日 - 新生党、全国代表者会議で新進党の結党に伴い解散・新党参加を決定
○ 1994年12月10日 - 新進党結成(羽田:副党首 渡部:幹事長代理 小沢:幹事長)
○ 1994年12月 - 社会党、新進党結党により、衆議院で第二党から第三党に転落
○ 1995年1月6日 - 山花貞夫、新進党の川端達夫、民主改革連合の粟森喬、民主新党クラブの海江田万里と会談して新党準備会発足に合意
○ 1995年1月16日 - 山花貞夫、新会派「民主連合・民主新党クラブ」の結成を決定
○ 1995年1月17日 - 山花を含めた衆院17名、参院7名の計24名が社会党の院内会派からの離脱を届け出たが、同日の阪神・淡路大震災の発生を受け、震災対策を優先するため会派結成を延期。参議院の同志本岡昭次は震災対策と並行して離党を実行すべきだと迫ったが、山花は応じなかった。 新党結成のタイミングを失して、準備会は4月に解散
○ 1995年(平成7年)3月20日 - 村山富市、地下鉄サリン事件が発生。村山は法務大臣前田勲男、国家公安委員会委員長野中広務、警察庁長官國松孝次、内閣官房長官五十嵐広三ら関係幹部に徹底捜査を指示、陣頭指揮を執る姿勢を見せ、事件捜査について「別件逮捕等あらゆる手段を用いて」と発言。地下鉄サリン事件等一連の事件を起こしたオウム真理教に対し破壊活動防止法適用が検討され、公安調査庁が処分請求を行った
○ 1995年5月10日 - 自民党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣官邸での村山との会話を洩らした。この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した
○ 1995年5月10日 - 山花貞夫、離党
○ 1995年5月29日 - 山花貞夫、土肥隆一、本岡昭次二らと新会派「民主の会」を結成(衆院5名、参院2名)。民主・リベラル新党結成は5月の社会党大会で党の方針となるが、結局党を割るのではなく党全体で参加することとなった
○ 1995年6月21日 - 村山富市、全日空857便ハイジャック事件が発生した際には、特殊武装警察に強行突入を指示し鎮圧
○ 1995年6月9日 - 衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された
○ 1995年7月 - 村山富市、総理府と外務省の管轄下で「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足
○ 1995年7月23日(日) - 第17回参議院議員選挙 44.52%-252/126-2001年7月22日)任期満了翌日の選挙。選挙で日本社会党は大きく議席数を減らしたため村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投
○ 1995年8月8日 - 村山内閣改造内閣(橋本:通商産業大臣)
○ 1995年8月15日 - 村山富市、『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話」(村山談話)を閣議決定。戦後50周年記念式典において、村山は閣議決定に基づき、日本が戦前、戦中に行ったとされる「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した。これ以後も保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である」との批判がある一方、逆に「この談話は結局のところ『戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある
○ 1995年9月 - 橋本龍太郎が自民党総裁に就任
○ 1995年12月 - 山花、海江田万里らと新党市民リーグを結成
○ 1995年12月 - 新進党党首選(小沢当選)
○ 1996年1月5日 - 村山富市、首相退陣を表明。自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意
○ 1996年1月11日 - 内閣総辞職。村山内閣退陣をうけ、派閥幹部橋本龍太郎が後任の総理大臣に就任(梶山:官房長官)。村山、橋本連立内閣では入閣せず、首相退任後は党務に専念
○ 1996年1月 - 山花貞夫、市民リーグは民主改革連合と組んで院内会派「市民リーグ・民改連」を届け出
○ 1996年1月17日 - 村山富市、日本社会党委員長選挙にて秋葉忠利を破り再選
○ 1996年1月19日 - 村山富市、党名を社会民主党に改称、初代党首に就任。所属議員のうち30人が新党さきがけ代表幹事鳩山由紀夫が提唱した新党構想に呼応
○ 1996年3月 - 日本社会党の名称は消滅
○ 1996年9月 - 山花貞夫、市民リーグは旧民主党結成に加わり、山花は副代表に就任
○ 1996年9月 - 村山富市、衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社民党党首に迎え、自らは特別代表に就任した
○ 1996年10月20日(日) - 第41回衆議院議員総選挙 59.65%-500解散(1996年9月27日)この回より小選挙区比例代表並立制。平成研、最大派閥に復帰
○ 1996年10月 - 山花貞夫、小選挙区比例代表並立制で初めて行われた衆院選で東京22区から出馬し、新進党現職の伊藤達也に僅差で敗れるが比例区東京ブロックで復活当選した(小選挙区勝利を逃した最大の理由は社民党が山花潰しに新人保坂展人を立て革新票が割れた事であった)
○ 1996年11月 - 第2次橋本内閣にて社民党は閣外協力に転じた

 -竹下派(平成研)は、小沢らの離脱のダメージから復活し、橋本・小渕と政権をつないだが…。<記2009年2月21日>■