ハンナ・アーレント
イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告-

ナツィの海外逃亡組織「オデッサ」によって南米アルゼンチンに潜伏(堂々と結婚生活を営む)していたアイヒマン・ナツィ大佐を、あのイスラエルの海外工作組織モサドがアルゼンチンからイスラエルへ“拉致”し・・・エルサレムで世界に対して大々的な「デモンストレーション的な」裁判を放ったのだ(大笑)。

ユダヤ人600万人の虐殺

ナツィの一小官吏アイヒマンが、この責の一端ならぬものを背負わされたのだ。
世界史には、このほかに-
●犠牲者が1000万人にのぼるかも知れないとまで言われたスターリン主義下の独裁[専制]による虐殺
●やはり犠牲者が数千万人にのぼるといわれる毛沢東の文化大革命などの社会主義の実験と権力闘争による虐殺
●カンボジアのポルポト政権の大虐殺
●マッカーシー旋風など
■南京城事件は入れてやんない(苦笑)<該当者
反対派への徹底した粛正と虐殺・・・二十世紀は、社会主義と石油(争奪の欧州大戦)の世紀だった。

さて、アメリカのザ・ニューヨーカー誌は、1951年に『全体主義の起源』三部作を著した亡命ユダヤ人哲学者アーレントに特派員としてアイヒマン裁判のレポートを依頼し派遣した。
アーレントが示したアイディアとは、
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○ヨーロッパの正統的な哲学思想そのものが全体主義と結びつく要素を持っていたのではないか
○精神の営みは何のためにあるのか、ナチスの蛮行のような巨悪は人間が「考えない」ことに関わって生まれるのではないか
○それが悪という現象についての我々の思考伝統とは違っているものだ
○最善の人だけが陥る「驕り」
○まったくのありふれた俗物
○何も考えていない
○思考の欠如
○・・・役割をこなしていた。ところが、そういった日常の手順では済まない状況にぶつかると、彼は途方に暮れた。
○常套語、決まり文句、因習的で規格にはまった言い方や行動様式
○「悪を為すこと」(作為による罪も不作為による罪も)は、「邪悪な動機」(法律で言われるような)がなくても出来るというだけでなく、また何か特別な差し迫った利害なり意志が何もなくても可能なのではないだろうか。
○悪意というのをどう定義するにせよ、このような「悪への意志」というのは、ひょっとしたら悪しき行為にとって何ら必要条件では「ない」のではないか。
○ことによれば善悪の問題、正不正を区別する能力は我々の思考能力と結び付いているのではないか。
○すなわち、「やましいところがない心」というのは、一般的に言えば、犯罪者とかそういった本当に悪い人々だけが持てるものであり、他方、ただ「善良な人々」のみか「良心の呵責」を持ち得るということだ。
精神の生活ほかより
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-ということだった。
アーレントは、あの偏執ぶりで・・・「哲学者の仕事(work)」としての特派員レポートを為し、全ヨーロッパ世界に対して辛辣で深刻な話題を提供し(得)た。そして、あのユダヤの長老で哲学者ショーレムとのユダヤ人協力者(指導的ユダヤ人の罪)論争にも発展した。
▼▼▼ 引用開始 ▼▼▼
〈アーレントとショーレムの論争〉
「私(アーレント)はあなた(ショーレム)が頭のてっぺんからつま先までわが民族の娘、それ以外ではありえない人と考えています」ということですが、わたしはあなたのこの言い方に、奸計めいたものを感じます。

確かに、このような態度は前政治的ですが、例外的状況では、否定的なあり方ではあれ、政治的な結果を生むことになります。この態度はある種のふるまいを不可能にするのであり、あなたがわたしの考察から取りだそうとしているのも、まさしくそれらの振る舞いなのです。
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ショーレムらは、アーレントもユダヤ人の同胞なのだから・・・指導的ユダヤ人たちがナツィに大量の下層ユダヤ人たち同胞を売ったのだ、という公然の秘密を暴くものではない、というのだ(苦笑)。

▼▼▼ 引用開始 ▼▼▼
ハンナ・アーレント
イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告-
目次
読者に
第一章 法廷
第二章 被告
第三章 ユダヤ人問題専門家
第四章 第一の解決-追放
第五章 第二の解決-強制収容
第六章 最終的解決-殺敷
第七章 ヴァンゼー会議、ポンテオ・ピラト
第八章 法を守る市民の義務
第九章 ライヒードイツ、オーストリアおよび保護領-からの移送
第十章 西ヨーロッパーフランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、イタリアーからの移送
第十一章 パルカンーユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア-からの移送
第十二章 中欧ーハンガリア、スロヴァキアーからの移送
第十三章 東方の殺鐵センター
第十四章 証拠と証人
第十五章 判決、上告、処刑
エピローグ
あとがき

解説
関係年表
文献
索引
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これを読み終わって、みなさんはどう思われるだろうか?
●アイヒマンは有罪か?無罪か?
 有罪としても処刑は妥当か?
●まったく別の問題であるナツィは有罪か?無罪か?
 ヒトラーは有罪か?無罪か?
 有罪としても全てが「悪」か?
アーレントは、姜尚中ら「ドイツの戦後処理」を理想化し、日本の戦後処理を糾弾する人々に対して、
■戦後ドイツの日本より捻じ曲がった戦後■
-というものを突きつける。ドイツ人は日本人よりも巧みに、
■ヒトラーのナツィ■
-に全てのドイツの悪を封じ込めたが、それらはやがて沸騰して吹き零れるだろう。
日本の戦後処理に対しては、支那人ではなく支那政府が政策として日本政府と日本国民に対して「姜尚中流の『ドイツの戦後処理』を日本も見習え」キャンペーンを続けるだろう。
ヒトラーはキミらの隣にいる。(亀井静香らがいうように小泉純一郎のことではないぞ!)隣人というよりも・・・キミらの極めて親しい友人なのだ。そこでを日本糾弾して絶叫するキミ~!まして、アイヒマンなど、キミらのおとうさんそのものだ(爆笑)。赤の他人の出来事ではない。アイヒマンはキミそのものだ。アイヒマンが有罪で死なねばならないのなら、たぶんキミのいまも有罪だ。わが現代社会にも、ヒトラーは一杯いて、アイヒマンはほぼ全員だ。無辜の市民などいやしない。
オウムやライブドアなど・・・こうして集う者供がなぜ犯罪に走り歯止めがきかなくなるか?それは、かれら全員がヒトラー(目的のためには委任された全権を用い)であり、アイヒマン(何のためらいもなく従属する小官吏)だからだ。

アーレントは、古代ギリシアのポリスの市民社会を愛している。決して、反ユダヤ主義を産んだヨーロッパを憎んではいないだろう。
市民社会・・・その公共の場で卓越を競う言論の闘争・・・それがアーレントの政治的人間だ。われわれの世界は、そうなっているか?われわれのネット・コミュニティーは、そうなっているか?
それは次稿に譲ろう。