---
62/10/27(土)第12日
(この日は後に暗黒の土曜日と呼ばれるようになる。午前6時、空軍少佐ルドル
フ・アンダーソンの操縦する米空軍U2型偵察機がフロリダ州の基地からキュー
バ上空に向かって飛び立った。それから3時間後モスクワ放送が突如フルシチ
ョフのケネディ宛のメッセージを英語で流し始めた。その内容は12時間前に送
られてきた書簡とは全く異なっていた。この手紙でフルシチョフはキューバの
ミサイル基地を撤去する交換条件としてトルコに配備されたアメリカのジュピ
ターミサイルを撤去することを何の予告も無く付け加えてきたのである。エク
スコム会議は騒然となった。)

安全保障担当補佐官マクジョージ・バンディー:夕べ大統領にあのような手
紙を送った後で、すぐ態度を変えるとはフルシ
チョフは難しい立場にあるのかも知れない。
ケネディ:我々も難しい立場に立たされている。トルコとキューバのミサイ
ルの交換をたいての人は妥当な取引と思うだろ
う。
マクナマラ:われわれに返事をする暇も与えないで取引の条件を変えてしま
うような相手と、どうしてまともな交渉など出
来るだろうか。

(午前10時、アンダーソン機がキューバ上空に達した。この時、カストロから
撃墜許可の出ていたキューバ軍防空隊の高射砲が激しく発砲した。同時にソビ
エト軍陣地から二発の地対空ミサイルがアンダーソン機めがけて発射されたの
である。)

在キューバソ連軍レーダー隊ビクトル・プチリン「いつもと同じようにU2を
離陸直後から追尾していた。ところが一度機影が消え二度と現れなくなった。
いくら待ってもU2の機影は消えたままだった。司令部に居た全員の顔が青ざ
めた。『一体何が起ったんだ。U2がどこかへ消えた-』」

(午前10時17分アンダーソン機はソビエト軍のミサイルを受けて墜落。アンダ
ーソンは死亡した。)

(その時、エクスコム会議はフルシチョフの二つ目の書簡を巡り、もう7時間も
紛糾を続けていた。そこにU-2型機撃墜の報告が入った。エクスコム会議は一
気に強硬論に傾いた。)

マクナマラ:キューバを爆撃するなら全面爆撃しかあり得ない。これは確実
に侵攻に発展するだろう。そうすればソビエト
はどこかで報復してくる。そうなれば-
統合参謀本部議長マックスウェル・テイラー:軍からの勧告は以下の通りだ。
遅くとも29日に全面爆撃を実施すること。そし
てその一日後に上陸作戦を実施すること。
ケネディ:トルコのミサイル撤去について、もう一度考えよう。血が流され
れば勇気などたちまち萎えてしまうものだ。こ
こは慎重にならなくては-

(エクスコム会議はケネディ大統領に翌朝、キューバの地対空ミサイル基地へ
の報復攻撃を行うことを勧告した。ケネディは追い詰められた。)

ケネディ:ただちに報復爆撃を行うことには賛成できない。だが再び、わが
国の偵察機が攻撃された場合には、報復を許可
する。

(U-2型機撃墜の報告はクレムリンをも大混乱に落とし入れた。マリノフスキー
国防相は驚きキューバ派遣軍を激しく叱責した。実はキューバのソビエト軍に
発砲を禁止する命令は一切出されていなかったのである。知らせを聞いたフル
シチョフは激怒した。だが、すべては手遅れだった。)


(ケネディ空爆演説予定稿。日付は19日。心は大変重いのですが、私はキュー
バ国内からミサイル基地を除去するため軍事行動をとることを命じました。ア
メリカ空軍は今、実行に移りました。核の時代は必然的に大きな危険もある時
代です。最も恐ろしいのは公然と冷酷に、世界制覇を目指す力によって、自由
と正義を守る、わが国の決意と意志が踏みにじられることなのです。)


(この危機の翌年。アメリカハドソン研究所のハーマン・カーン博士が米ソが
全面核戦争に突入した場合の、いかなる被害をもたらすかを予測するリポート
を作成している。カーン博士のリポートは、世界の研究機関が行った様々な研
究を総合すると第三次世界大戦は次のような経過を辿ることが想定できる。ア
メリカのキューバ攻撃の報復としてソビエトは、ヨーロッパで行動を起こす。
ワルシャワ条約軍が西ベルリンを封鎖。ついで西ドイツに侵攻。優勢なワルシ
ャワ条約軍に対し、NATO軍のミサイルが発射され核戦争の火蓋が切られる。そ
の報復としてワルシャワ条約軍のミサイルが西ヨーロッパを襲う。その報復と
してNATO軍のミサイルが東ヨーロッパとソビエトに飛来する。アメリカ軍の戦
略爆撃機がソビエト本土への攻撃を開始する。同時にソビエト軍の爆撃機が、
アメリカ本土に飛来する。研究によれば最悪の場合、この核戦争でアメリカ国
民の70%、ソビエトでは40%が死亡すると見積もられていた。)


(核戦争は目前に迫った。)
(午後7時45分、駐米ソビエト大使ドブルイニンは司法長官ロバート・ケネディ
から緊急の呼び出しを受けた。司法省に急行したドブルイニンを蒼白な顔をし
たロバート・ケネディが待っていた。)

ロバート「最早一刻の猶予もならない。アメリカはキューバのミサイル基地
に対し、爆撃を加える覚悟を固めた。明日にでも攻撃は始まるだろう。だが、
この攻撃はあなたがたソビエトに苦痛を与えるものであることは疑いもなく、
あなたがたはヨーロッパのどこかで我々アメリカに反撃するであろう。そう
なれば百万ものアメリカ人やソビエト人が死ぬ。我々はそうした事態を望ん
ではいない。」

ドブルイニン「トルコのミサイル基地はどうなるのか。」

ロバート「もしもこの問題が解決への道を阻む唯一のものであるのなら、大
統領はこれが克服しがたい困難であるとは考えていない。残念ながら時間は
わずかしかない。明日中に返事がいただきたい。そのために最高機密である
ホワイトハウスの電話番号をあなたにお教えしよう。」

(ドブルイニンはワシントン公使コルニエンコと対応を協議した。この提案が
危機を救うかも知れない。事態は一刻を争った。大きな問題があった。)

駐米ソ連公使ゲオルギ・コルニエンコ「当時ワシントンとモスクワの間には
直通の通信回線はなかった。大使館からの全ての連絡を複雑な暗号にしてか
ら、普通の電報と同じように民間の回線でクレムリンに送っていた。」

テレグラフ

(ワシントン時間午前2時、暗号化され文案が出来あがった。この時代アメリカ
の電信会社は自転車で電報の集配を行っていた。文案がつくられてからフルシ
チョフの手元に届くまで最低6時間。これが当時もっとも早いモスクワへの連
絡方法だったのである。)

(モスクワ時間10月28日午前10時、フルシチョフはU-2型機撃墜後の対応を協議
するために側近たちを自分の別荘に集めた。会議室に集まった側近たちの机の
上には前日27日にカストロから届いた書簡が置かれていた。続いてドブルイニ
ンの電報が届いた。電報はアメリカの攻撃が間近いこと、ケネディがトルコの
ミサイル撤去提案に応ずる意志があることを伝えていた。だがこの時、側近た
ちはアメリカの攻撃が間近という言葉にのみ心を奪われ、会議の緊張は一気に
高まった。その時電話が鳴った。電話の声は、驚くべき情報を側近たちに伝え
た。モスクワ時間午後5時。ケネディ大統領が緊急テレビ演説を行う。さらに2
8日の朝、ケネディが教会に行くとの情報が流れた。アメリカの大統領は歴史
上戦争をはじめる前に必ず教会で祈りをささげるという。側近たちはケネディ
がキューバ攻撃を決意したものと確信した。フルシチョフは最後の決断を迫ら
れた。撤退か。戦争か。フルシチョフのミサイル撤去宣言は異例の早さで行わ
れた。ケネディの演説が始まる午後5時が迫っていた。通常の外交ルートでは
間に合わない。フルシチョフはラジオで声明を流し、ホワイトハウスが放送を
聞いていることに全てをかけた。モスクワ時間午後5時。ケネディの演説がは
じまるはずのまさにその時間モスクワ放送はフルシチョフがキューバからミサ
イルを撤去するとの演説内容を英語で流しはじめた。)


---
62/10/28(日)第13日
(ソビエト政府は平和を愛する米ソ両国の人民のため決断した。米国政府が攻
撃用であると主張する兵器を、キューバから撤去し祖国へ持ち帰るように命令
した。)

(ドブルイニンは朝のラジオ放送を安堵の思いで聞いていた。放送終了直後、
グロムイコから大至急ケネディに面会せよとの命令が届いた。)

ドブルイニン「ケネディはホッとした表情で『危機は終わった』と一言述べ、
そして笑顔で『やっと家に帰れる。子どもにも会える』と言ったのだ。」

(ケネディのスケジュール表。ケネディは毎週日曜日、必ず教会に行っている。
ケネディに限らずアメリカ大統領が日曜の朝教会に行くのは特別なことではな
かった。)

トロヤンスキー「例のテレビ演説の情報は後日、全くの誤報だったと判明し
た。実は海上封鎖の演説を再放送する話のようだった。あわてる必要はなか
ったのかも知れない。だがあの時は-。全員が真剣に戦争開始宣言と信じて
疑わなかったのだ。」

ソレンセン「呆然とした。世界最初の核戦争の危機が突然終わったのだ。望
み祈り、力を尽くしたことがこんなに早く報われたのだ。」

バンディー「ホワイトハウス内で聞いて大統領に電話で伝えた。いつも悪い
知らせばかりだったから、あの時は嬉しかった。」

(同じ時刻フルシチョフの宣言はキューバにも流れた。カストロには事前に何
の連絡も無かった。)

カストロ「私は激しい怒りを感じた。何の相談も無く丸で取引の材料のよう
に扱われたのだから。」

(10月29日付キューバの新聞。見出しは、われわれの祖国をわれわれだけの手
で守れ。より厳重な警戒態勢をとなっている。核ミサイルの撤去でキューバは
裸同然になった。その後もミサイルの撤去方法を巡り米ソとキューバことごと
く対立した。ミサイルが撤去されアメリカ戦略空軍がDEFCON-2を解除したのは
11月20日のことだった。)

(ここにカストロがフルシチョフに送った書簡がある。10月31日カストロから
フルシチョフ書簡。生き残るために大国にすがり見捨てられたカストロの怒り
が伝わってくる。同志フルシチョフよ。我々は核戦争が勃発したら滅亡するか
もしれないことを知っている。だからと言ってミサイルを撤去してくれと頼ん
ではいない。今、手綱を解き放たれ牙を剥いて襲い