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62/10/22(月)第07日
(午後7時、ケネディの演説はテレビラジオを通じて世界に放送された。世界中
の人々がキューバで起きている人類の危機をはじめて知った瞬間だった。海上
封鎖宣言。キューバへのミサイル搬入を停止させるため海上検疫を行う。船内
に攻撃兵器が発見されれば、いかなる船にも帰国を命じる。もしもキューバか
ら西側陣営に核ミサイルが発射されれば、それはソビエトからアメリカに発射
されたも同様とみなす。)

(ソビエト大使館の職員はこの放送を呆然として聞いていた。彼らはミサイル
配備をこの日までまったく知らなかったのである。)

駐米ソビエト大使アナトーリー・ドブルイニン(42)「大使の私でさえ初耳で
何も知らされていなかった。核をキューバに配備するなど本国から一度も聞
いたことは無く、私も国連大使のゾーリンも全く知らなかったのだ。」


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62/10/23(火)第08日
(海上封鎖宣言はキューバにも届いた。島国キューバにとって封鎖は宣戦布告
も同然であった。)

カストロ:革命家同紙、愛国者よ、運命を共にする時が来た。祖国か死か!
我々は勝利する。キューバ軍参謀本部は、最高
警戒体制を発令。27万の正規軍に総動員令。全
員戦闘配置につく。全職場、学校で民兵の戦闘
訓練を開始。
内務次官ファビアン・エスカランテ「わが国の体制が気に入らないというだ
けの理由で、侵攻してくるなど理不尽極まりない。」

(キューバはアメリカの侵攻があった場合、全員玉砕の運命にあった。一般市
民も男女の別なく銃をとった。)
(病院は献血をする市民で溢れている。市民たちもアメリカの侵攻は間近いと
信じ死を覚悟していた。)

元民兵隊員「勝てると思いはしなかった。だが、この島を占領するのが、い
かに高くつくかを思い知らせてやるぞと決意していた。」

カストロ「核戦争で我々は滅亡する-それが我々の考え方の基本だった。祖
国が征服され国民が死を決意するような状況になったら、私は核兵器の使用
にためらわなかっただろう。」

(一方クレムリンではフルシチョフとその側近たちがケネディの演説に聞き入
っていた。フルシチョフは核ミサイルを持ちこんだとするケネディの非難を事
実無根と撥ね付け、逆にケネディを激しく非難した。だが、-)

元フルシチョフ顧問オレグ・トロヤノスキー「正直言って『ホッとした』と
いう感じだった。ケネディの演説には侵攻という言葉も爆撃という言葉も無
く、『検疫』という言葉しかない。この言葉なら広く解釈できる。我々は安
心したのだ。交渉の余地は残されていると。」

セルゲイ・フルシチョフ「その時点ではソビエト政府にミサイル撤去の考え
は皆無だった。むしろ一刻も早く軍事基地を完成させ覚悟を示すつもりだっ
た。」

(この日、フルシチョフはソビエトと東ヨーロッパのワルシャワ条約軍に緊急
動員を命令した。ソビエトの核ミサイルはいつでも発射可能の状態にあり、ア
メリカと西ヨーロッパの目標に照準を定めていた。ソビエトで全面核戦争の準
備がはじまった。その夜フルシチョフは側近たちを連れてボリショイ劇場にオ
ペラを鑑賞に出かけた。周囲と国民に余裕があるところを見せ付けるためのフ
ルシチョフ一流の演出だった。この夜の曲目はフルシチョフがお気に入りのボ
リス・ゴドノフ。皮肉にも出演していたのはアメリカのメトロポリタン歌劇団
だった。しかし、この曲の最後の台詞は、困難なフルシチョフの未来を暗示す
るようであった。流れよ苦き涙。泣け神の子らよ。やがて敵が来て今よりなお
暗い真の暗黒がやって来る。)

(同じ日、バージニア州ノフォーク大西洋艦隊司令部海軍基地に出動命令が下
った。大統領令に従い、キューバへの航路を全力をあげ封鎖せよ。)

海軍中将アルフレッド・ウォード「午後9時予定通りノフォーク軍港を出航。
この時点でキューバに18隻、大西洋上に30隻の検疫対象の船がある。その中
の5隻がミサイルを運んでいるらしいとの情報があった。乗組員に小銃と手
榴弾などの点検を命じ、27ノットで封鎖海域に向かう。わたしは昨日の夜、
妻に電話し将来のすべての予定をキャンセルした。」

(カリブ海には空母エンタープライズ・インディペンデンスをはじめ183隻の艦
船がひしめいていた。海上封鎖実施に当たっては国防総省から以下の命令が出
ていた。キューバに向かう船を発見した場合速やかに停船を命じ、検疫を実施
せよ。兵器が合った場合は拿捕。抵抗した場合は破壊してもよい。)

(だがキューバに向かうソビエト船にもフルシチョフ直々の命令が出ていた。
もしもアメリカ軍艦に停船を命じられた場合、その時点で戦闘状態に入ったと
認識せよ。)

元ミサイル輸送船船長キム・ゴルベンコ「航海の全責任は船長が負い、軍人
も私の指揮下に入っていた。米国艦船による拿捕に備えて、私は全員を戦闘
配置につけた。船が拿捕された時は即座に、船を爆破し自沈する命令だった。」

(ソビエト船の封鎖線突入は25日ごろと考えられた。カリブ海は緊張がみなぎ
っていた。だが緊迫していたのはカリブ海だけではなかった。)

(ここに私たち日本人にとって衝撃的な文書がある。10月23日付け太平洋艦隊
司令官が統合参謀本部に送った報告書である。日本への核持込の許可が下りれ
ば、太平洋艦隊の全面戦争への準備は全て整う。米国海兵隊司令部報告書。)


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62/10/24(水)第09日
(アメリカ戦略空軍に全面戦争突入直前を意味するDEFCON-2が発令された。DEF
CON-2が発令されたのは戦略空軍の歴史上はじめてのことだった。DEFCON-2実
施について、ひとつ戦闘要員は24時間非常待機態勢に置く。ひとつB-52爆撃機
は八分の一を空中警戒態勢に置く。ひとつ残りのB-52とB-47爆撃機のすべてを
滑走路上で待機態勢に置く。この日爆撃機に搭載された核爆弾は、1627発にの
ぼった。)

元B-52爆撃機パイロット ウィリアム・モーゼス「『生きては戻れぬ』と思
った。同僚も同じ思いだっただろう。妻には『きっと生きて戻れない』と告
げた。死を覚悟していたのだ。」

(マクナマラはキューバ侵攻作戦による死傷者の見積もりを命じた。死傷者は
通常兵器のみの戦闘で一万八千四百八十四人。核戦争については算出すらされ
ていない。)

マクナマラ「キューバに侵攻していたら大惨事だっただろう。大統領の命令
で国防総省が立てた作戦では侵攻軍は18万人。第一に爆撃、第二に上陸作戦。
同時に1080回の支援爆撃を行う。しかし侵攻軍を待っていたのは核ミサイル
だったのだ。もし侵攻したら、何万もの若者がいっぺんに死んでいたのだ。」


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62/10/25(木)第10日
(この日、米ソがはじめて直接に遭遇した。午前7時、貨物船マリキュラ号が封
鎖線を突破した。大西洋艦隊の駆逐艦二隻がこれを発見した。どんな小競り合
いでも、それが全面戦争の引き金になる可能性がある。しかしウォードは決断
した。予定通り検疫を実施せよ。-マリキュラ号はミサイルを積んでいなかっ
た。みんなが胸をなでおろした。---You are making history.)

(その夜、NY国連本部では緊急安全保障理事会が開かれた。アメリカ国連大
使スチーブンソンはソビエト大使ゾーリンと国連の歴史に残る激しい議論を繰
り広げた。)

アメリカ国連大使アドレイ・スチーブンソン 「ゾーリン大使にお聞きした
い。核ミサイルはあるのかないのか。通訳を介
さずに簡潔に答えて欲しい。イエスか、ノーか。」
ソビエト国連大使バレリアン・ゾーリン 「ずいぶん短い質問だが答えるに
は時間がかかるぞ。」
アメリカ国連大使アドレイ・スチーブンソン 「地獄が凍りつくまでお待ち
しよう。」

(ワシントンのソビエト大使館互いに一歩も譲らぬケネディとフルシチョフの
間に立って焦燥を深めていた。ドブルイニン大使の電報。10月25日ワシントン
発モスクワ外務省宛。アメリカ政府はひどく神経を苛立たせている。ロバート
・ケネディなど強硬派が実力による撤去を主張する一方で、ラスク国務長官の
ように慎重な態度をとるものもいる。ケネディ大統領は煮え切らない態度のま
ま。事態は解決の糸口を見出せず神経戦に突入している。最近ワシントンの通
りを歩く人々がめっきり少なくなった。)

(ソビエト指導部は依然としてキューバへの核ミサイル配備を認めようとしな
かった。だがフルシチョフはこの時期、平静を失っていた。普段、陽気でよく
しゃべるフルシチョフが、この時期だけは自分の別荘に篭り、気難しく無口に
なった。)

セルゲイ「父はずっと苛立っていた。『ケネディの真意は何だ』と。突発的
衝突が起きて事態が暴走することを恐れていた。米ソが戦争までする理由な
ど全く無いのに-。ケネディや自分の意図とは全く無関係に戦争が始まる。
そういう不測の事態を恐れていたのだ。」


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62/10/26(金)第11日
(キューバでついに核が動き出した。ソビエト軍司令部は洞窟に隠していた核
弾頭をミサイル発射基地に移す命令を出した。)

元戦略ロケット部隊イワン・シシェンコ「キューバ万歳。カストロ万歳。ソ
連万歳。フルシチョフ万歳。その熱烈な歓迎に我々は奮い立ったが複雑な気
持ちだった。歓声の中我々が運んだのは、恐るべき核兵器だったのだ。」

(核を使わなければソビエト兵たちは全滅してしまう恐れもあった。キューバ
派遣ソビエト軍司令部はアメリカ軍の侵攻が明日にも行われると予測していた。
キューバ派遣軍副司令官ガルブスは、モスクワに向けて核の使用許可を再三に
渡り求めた。だが-)

在キューバソ連軍副司令官レオナード・ガルブス「フルシチョフは自分で火
に油を注ぐようなことをしておきながら、我々に死をもって戦い抜けなどと
命令しておきながら、土壇場になって怖くなったのです。われわれに核兵器
を使用してはならぬと言ってきたのです。」

(この時期、アメリカ軍の偵察はさらに回数を増していた。夜も昼も続く偵察
飛行は、キューバ軍の兵士たちをひどく刺激した。キューバ軍兵士は偵察機に
対して発砲することを厳しく禁止されていた。兵士たちは上官に発砲命令を出
すように執拗に迫った。)

元キューバ軍防空隊司令ラウル・クルベロ「兵士たちは偵察機に対して憎悪
を抱き発砲許可を求めた。『いつまで我慢するのだ』『いつまで米国の横暴
を許すのか』兵士たちに問い詰められて、私は『辛抱してくれ』と答えた。
上層部からの許可を待つしかなかったのだ。」

(カストロの元にはフルシチョフから書簡が届いていた。アメリカ軍の挑発に
乗って、こちらから攻撃を仕