【プー太郎旅日記】~ シンクロニシティと神様と、陰謀とアセンションと、、 ~ -3ページ目

【プー太郎旅日記】~ シンクロニシティと神様と、陰謀とアセンションと、、 ~

東京出身40代の独身男が、震災をきっかけに、それなりに給料の良かったSE職を辞めて世界の陰謀論にのめり込み、神社巡りの旅に出掛けたら、次から次に不思議な偶然に出会ってしまうというドキュメンタリー。それらはただの偶然か、それともすべて必然か!?

8月30日

嬉野に来てから、早いもので5日目になる。

宿にお願いしたのは5泊だったので、一応明日チェックアウトということになるわけだが、昨日の「書き下ろし屋」のこともあったし、もう少し長くここに滞在しようと思い、延泊のお願いをしに一階に降りた。
女将さんにその件でお話をすると「あなた、ちょっとお入りなさい。お話しませんか。」と言われ、昨日お昼を頂いた和室に招き入れられた。
直感的に「ああ、自殺でもしに来てると思って心配されてるかな。」と思った。いい年をした男が一人で一週間近くも特に観光するでもなく滞在していて、さらに延泊するとなると、宿からしたら怪しく見えるに違いない。

「あなた、ここへは何をしに来たの?」変人だと思われるかなとは思ったけど、とにかくすべてお話しすることにした。
東北の震災で人生を見つめ直そうと思い仕事を辞めたこと、幣立神宮で手を合わせたら突然涙が溢れ出たこと、奇妙な偶然でワンちゃんに出会ったこと、ワンちゃんがボランティアでドライバーになってくれて熊本からここまで連れて来てくれたこと、「あんでるせん」の超能力のこと、などなど、この旅が不思議な偶然に満ち溢れていて、何か見えない力に導かれているとしか思えないとお伝えした。
「はぁー、そうですか。」女将さんは、驚くことはあっても、疑うことはなく、僕の話を受け入れてくれた。

「この家はね、神屋敷なんです。」女将さんの話が始まった。初日にワンちゃんが気付いたとおり、やはりこの宿が建つこの場所は、昔の豊玉姫神社境内の跡地だそうだ。
女将さんは数年前に旦那さんを亡くされて、今は一人で宿の切り盛りをしている。御年82歳。実は宿の他にも近くにお店を所有していて、株式会社の形態で経営をされているという。旦那さんがご健在だった頃は会社のお金の管理は旦那さんがされていて、女将さんは宿のことだけしていればよかった。しかし、旦那さんに先立たれた後は、会社の経営も女将さんが預かることとなり、突然、知識も経験もないお金の管理をしなければならなくなった。会社の資産は大きいが、残された借金の額も少なくなく、毎月なんとか収支を納めている状況だという。「お金が厳しくて、もうダメだと思う月もあるけどね、不思議なのは、そういうときに限ってどこかからお金が入って来るんです。神様に守られてるとしか思えんです。」
そういえば、ワンちゃんも同じようなことを言ってたっけ。ギリギリのところでどこからかお金が入って来る。まさに神業、か。

この宿は、観光案内所で紹介された4軒目の宿である。もし、前の3軒のどこか一つでも部屋が取れてれば行き着いていない。しかも、3軒は宿のリストを見ながら自分で選んだが、この宿だけは案内所の方から突然提案された。やっぱり呼ばれて来た。女将さんの話を聞きながら、そう確信した。

女将さんは大人数の兄弟姉妹の中で長女として育ったが、なんとお兄さんと妹さんを自殺で亡くされているそうだ。妹さんに至っては、ほんの数年前だという。何でも50歳過ぎのお子さんが結婚できないでいるのを気にされてのことだというが、何とも悲しい話である。女将さんは、そばにいた自分が何もしてあげられなかったことに対して強い自責の念をお持ちで、会社の経営が一段落したら、自殺防止のための活動をしたいと思っていると教えてくれた。

また、やはり震災をきっかけにして仕事を辞めて東京から泊まりに来た女性客がいたことも教えてくれた。彼女は、これから食糧難の時代が来るという信念の基に新技術の農業を勉強していて、その研修所が嬉野の近くにあるそうだ。「考え方があなたと同じ。」と盛んにおっしゃっていて「今度10月に来るからその時来なさい。紹介します。」と言われたが、あとひと月したらもう東京帰ってると思うから難しいです、とお伝えした。

神様の話から始まって女将さんの身の上話まで聞かせて頂き、一気に心の距離が縮まった気がした。
すると、女将さんが、亡くなった旦那さんの部屋を見せると言う。旦那さんは本が好きで物知りな人だったようで、女将さんも尊敬していたそうだ。
屋根裏のような小部屋に案内してもらうと、本がぎっしり詰まった本棚とCDやオーディオ機器などが目に入った。亡くなってから数年になるというが、よく整理され小綺麗にしてある。女将さんの旦那さんへの愛情が感じられる部屋だ。
本棚には、「坂の上の雲」から「ハリーポッター」まで、新旧様々なジャンルの本が並んでいた。旦那さんの趣味の広さと、新しいものにも抵抗のない心の広さを感じさせる。
音楽は、クラッシックがお好きだったようで、ほぼ全てクラッシックのCDだったが、その中にポツンと「偉大なる西部 ダンスウィズウルブス」と書いた映画音楽のオムニバスものがあった。阿蘇の宿でのお父さんの話とつながったと思った。「ダンスウィズウルブズ」なんて単語ここ何年も聞いたことなかったけど、この一週間で二度も出て来た。そして、それはワンちゃんの話ともつながる。やはり、僕の前世はアメリカ・インディアンか。

そういえば、昔アメリカに住んでいたとき、インディアンの音楽を好んで聞いていた時期があった。聞いているととても落ち着くことができた。
僕が住んでいたのはアメリカ西部にあるユタ州というところだ。
州のほとんどが砂漠で、周辺にはいくつものインディアン居住地がある。かつてヨーロッパからの移民が押し寄せたとき、東海岸に住んでいたインディアン達は先祖代々の土地を取られ、西へ西へと追いやられた。生きるには過酷な環境である不毛な西部の砂漠地帯を居住地として充てがわれ、その子孫達は今でもそこに住んでいる。
アメリカというと、ニューヨークやボストンなど、東海岸の大都市に憧れる人は多いが、僕はなぜか昔から西部の砂漠や西海岸に惹かれていた。
それも偶然ではないということだろうか。。。

座敷に招かれてから旦那さんのお部屋を見せてもらい、一時間以上、いや、二時間近く話しただろうか。いい時間だった。
本題の延泊の話をすると、5日から団体のお客さんが入っているらしく、それまでなら大丈夫とのことだった。「書き下ろし屋」さんが開くのは3日だ。ほう、神様はうまく調整するもんだねと思いながら、4日まで泊まらせてもらうことにした。

ひとしきりお話しした後、湯豆腐定食以外にこの宿で出しているもう一つの昼のメニュー、茶蕎麦定食をお願いして、温泉に入ることにした。女将さんが気を遣ってくれて、男風呂より広い女風呂に入らせてくれた。今日は僕以外に宿泊客はいないらしい。

茶蕎麦定食は、ちょうど湯豆腐定食の湯豆腐が茶蕎麦のザル盛りに代わったもので、昨日と同様においしかった。茶蕎麦そのものはもちろんだが、つけ汁の出汁もうまかった。嬉野は温泉と豆腐以外にもお茶で有名な町なのである。

午後からは宿の裏手にある川周辺を散策して歩いた。川辺に佇みながら、阿蘇で書くことを決めた日記を書き始めた。そう、実はこの日が、この日記の始まりの日です。
途中から降り出した土砂降りの雨を、屋根の下でやり過ごしながら日記を書いた。激しい雨がこれまでの旅の疲れを一気に洗い流してくれているようで心地よかった。腰のコワバリの痛みはもう気にならなくなっていた。

今日一日、女将さんとたくさん深い話をして、この土地とのご縁を強く感じ始めた。
阿蘇に続く、旅の第二章が静かに幕を開けていく、そんな気がした。