右翼はどうしてだめなのか
ネット上で、いわゆる右翼が攻撃されるときは「バカウヨ」などと蔑称で呼ばれ、逆に左翼が攻撃されるときは「ブサヨ」などと呼ばれるようである。
右翼・左翼という言葉は実はあいまいで、簡単に分類することも、定義をすることも難しい。国語辞典によれば、右翼は保守的・国粋主義的なことを指し、左翼は急進的・革命的・社会主義的・共産主義的なことを指すようだが、保守と革新という言葉をとってみても、かつては資本主義を「保守」するか、あるいは「革新」して社会主義・共産主義を目指すかという分かりやすい構図だったのが、小泉政権時代以降は、より資本主義の弱肉強食度を強めることが「革新的」、逆に、戦後構築されてきた福祉国家政策を守ることが「保守的」という印象を人々に与えることもあり、「右翼」「左翼」の言葉が、人々に共通の語として認知されているか、とても疑わしい。しかし、歴史を長い目で見れば、資本主義社会は完全自由期・完全弱肉強食期から、やがて国民の力で修正されて社会主義・共産主義的な方向、すなわち福祉国家・富の再分配の強化へ進んでいくのが大きな流れ(革新)であり、これに反する政策は、いわゆる「反動」といってよい。つまり、歴史の流れに反しているということである。「反動」という語を使うと「ブサヨ」らしいと言われるのかもしれないが、そういう非難をする人々は、富の再分配をせず、弱肉強食化を強めて、貧困層を作り出すことが、人類社会の行き着く先とでも考えているのだろうか。それではあまりにも悲観的な人生観ではないか。
私はかつて「右翼」について、「自分の利害と、その所属する団体の利害の違いが明確に区別できない人」というようなことを書いた。すなわち、日本の右翼についていえば、日本の政府を批判することと、日本国民個人を批判することはまったく次元が異なるのに、彼らはその意識が未分化なのである(日本政府への批判が自分への批判に聞こえるということ)。これを言い換えれば、右翼的性向の強い人というのは、そのアイデンティティを、帰属する集団に依ってしか確立できない人、ということになろうか。このような右翼的性向は、為政者にとって都合がよい。右翼的性向の持ち主は、例えば北朝鮮政府幹部と北朝鮮国民との違いがはっきり認識できないから、自分の国の為政者がその国内政治への不満をそらすために、「北朝鮮はけしからん、北朝鮮をやっちまえ」と扇動すれば、北朝鮮国民を殺害することも罪と思わなくなる。このように、政治家にとって、右翼的性格の人々は、国策に動員するため=戦争に駆り立てるために恰好の人材といえるであろう。またこのような右翼的性格の人々は、資本家にとっても都合がよい。個人とその帰属団体との区別ができないということは、労働者とその帰属する会社・資本家との区別ができないということである。資本家は、労働者がブルジョワとプロレタリアートという階級対立の図式に気づくことを最も恐れるため、それを妨げる右翼的性向を歓迎するというわけである。すなわち資本家は労働者に、事実とまったく異なるのに、「会社が繁栄すれば従業員も豊かになる」と信じさせて、大人しく働いてほしいのである。
そういう次第で、手っ取り早い話、右翼的性向は福祉国家を目指す「革新」のための妨げになる。初等教育の時期から、子どもには個人と国家との区別をしっかり教えるべきである。もっとも、個人と団体(国家)の区別ができないことは、ときおり人に感動をもたらすことがある。「祖国のために命を懸けた」という言い方はあからさまに古くても、「社会のために命を懸けた」という表現は美しい。しかも、そのように自分ではなく団体のために自分を犠牲にするような人はとてもピュアで、美しい心の持ち主であったりする。しかし命を懸けて守るべき団体の利益は、団体に属する個人の利益に直結しているときのみ価値があるのであって、国家を守ったからといって国民が守られるわけでもなければ、企業を守ったからといって従業員が守られるわけではない。国家のために国民が、企業のために従業員が犠牲になるのは無価値であるということを冷静に認識すべきである。そう考えると、団体のために個人が犠牲になってもよい場合というのは、せいぜい家族のために家族の一人が犠牲になる場合くらいではなかろうか。ピュアで美しい心の右翼は、「ずる賢い人々」にだまされて利用されないよう、気をつけるべきだと、私は思う。
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右翼・左翼という言葉は実はあいまいで、簡単に分類することも、定義をすることも難しい。国語辞典によれば、右翼は保守的・国粋主義的なことを指し、左翼は急進的・革命的・社会主義的・共産主義的なことを指すようだが、保守と革新という言葉をとってみても、かつては資本主義を「保守」するか、あるいは「革新」して社会主義・共産主義を目指すかという分かりやすい構図だったのが、小泉政権時代以降は、より資本主義の弱肉強食度を強めることが「革新的」、逆に、戦後構築されてきた福祉国家政策を守ることが「保守的」という印象を人々に与えることもあり、「右翼」「左翼」の言葉が、人々に共通の語として認知されているか、とても疑わしい。しかし、歴史を長い目で見れば、資本主義社会は完全自由期・完全弱肉強食期から、やがて国民の力で修正されて社会主義・共産主義的な方向、すなわち福祉国家・富の再分配の強化へ進んでいくのが大きな流れ(革新)であり、これに反する政策は、いわゆる「反動」といってよい。つまり、歴史の流れに反しているということである。「反動」という語を使うと「ブサヨ」らしいと言われるのかもしれないが、そういう非難をする人々は、富の再分配をせず、弱肉強食化を強めて、貧困層を作り出すことが、人類社会の行き着く先とでも考えているのだろうか。それではあまりにも悲観的な人生観ではないか。
私はかつて「右翼」について、「自分の利害と、その所属する団体の利害の違いが明確に区別できない人」というようなことを書いた。すなわち、日本の右翼についていえば、日本の政府を批判することと、日本国民個人を批判することはまったく次元が異なるのに、彼らはその意識が未分化なのである(日本政府への批判が自分への批判に聞こえるということ)。これを言い換えれば、右翼的性向の強い人というのは、そのアイデンティティを、帰属する集団に依ってしか確立できない人、ということになろうか。このような右翼的性向は、為政者にとって都合がよい。右翼的性向の持ち主は、例えば北朝鮮政府幹部と北朝鮮国民との違いがはっきり認識できないから、自分の国の為政者がその国内政治への不満をそらすために、「北朝鮮はけしからん、北朝鮮をやっちまえ」と扇動すれば、北朝鮮国民を殺害することも罪と思わなくなる。このように、政治家にとって、右翼的性格の人々は、国策に動員するため=戦争に駆り立てるために恰好の人材といえるであろう。またこのような右翼的性格の人々は、資本家にとっても都合がよい。個人とその帰属団体との区別ができないということは、労働者とその帰属する会社・資本家との区別ができないということである。資本家は、労働者がブルジョワとプロレタリアートという階級対立の図式に気づくことを最も恐れるため、それを妨げる右翼的性向を歓迎するというわけである。すなわち資本家は労働者に、事実とまったく異なるのに、「会社が繁栄すれば従業員も豊かになる」と信じさせて、大人しく働いてほしいのである。
そういう次第で、手っ取り早い話、右翼的性向は福祉国家を目指す「革新」のための妨げになる。初等教育の時期から、子どもには個人と国家との区別をしっかり教えるべきである。もっとも、個人と団体(国家)の区別ができないことは、ときおり人に感動をもたらすことがある。「祖国のために命を懸けた」という言い方はあからさまに古くても、「社会のために命を懸けた」という表現は美しい。しかも、そのように自分ではなく団体のために自分を犠牲にするような人はとてもピュアで、美しい心の持ち主であったりする。しかし命を懸けて守るべき団体の利益は、団体に属する個人の利益に直結しているときのみ価値があるのであって、国家を守ったからといって国民が守られるわけでもなければ、企業を守ったからといって従業員が守られるわけではない。国家のために国民が、企業のために従業員が犠牲になるのは無価値であるということを冷静に認識すべきである。そう考えると、団体のために個人が犠牲になってもよい場合というのは、せいぜい家族のために家族の一人が犠牲になる場合くらいではなかろうか。ピュアで美しい心の右翼は、「ずる賢い人々」にだまされて利用されないよう、気をつけるべきだと、私は思う。
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