裁判員制度と裁判インコ | シイタケのブログ

裁判員制度と裁判インコ

 裁判員制度が来年春から始まる。ロースクールもできた。訴訟法も改正された。法テラスもできた。そして裁判員制度が施行されればいよいよ一連の司法制度改革の終幕といえるのだろうか。今頃になって裁判員制度については賛否両論が出ている。今頃反対するならどうして法案提出前に、あるいは国会審議中にもっと声を大にしなかったのかと問いたい。いや、声を大にしていてもマスコミが採り上げなかったのかもしれない。後期高齢者医療制度もそう、労働者派遣法もそう、マスコミは法律ができる一番大事な時期=法制審議会での審議中や国会審議中にその法律を大して採り上げない。選挙前も現政権がどんな法律を通したか採り上げない。もちろんマスコミは広告料収入で成り立っているから自己に有利な情報しか提供しないのは分かるが、それにしても困ったものだ。裁判員制度について私が思うことは…どっちでもいい、ということだ。司法も大事な三権のひとつであるから、最高裁裁判官の国民審査だけでなく、国民は司法に対してもっとアプローチできるようにすべきだとは思う。その意味では裁判員制度は望ましい。…しかし問題は、この裁判員制度がはたして国民の声を実現したものなのか?という点だ。私の勉強不足もあるだろうが、私はこの裁判員制度導入の声が、どこから発生して誰が強力に推し進めたのか知らない。もちろん立案段階の司法制度改革審議会などの議事録を見れば分かるのであろうが、それに載っていないこともあるだろうし、第一こんなに大事な制度なのに、裁判員制度を導入せよ、という国民運動(集会やら署名活動やら)を私は見聞きしたことがない。普通、国民の声(利権集団ではなく本当の国民一人一人の声)を政策に反映させるというのは、政治家も官僚も一番嫌がることである。行政事件訴訟法が改正されて若干訴訟の間口が広がっても、これを大々的に政府がアピールすることなどは決してない。しかし今回の裁判員制度はどうだろう。法務大臣が着ぐるみまで来て捨て身のパフォーマンスをしているではないか。各裁判所も広報活動に熱心だ。それに対して国民は冷めた目つき。…この状況、何かおかしい。裁判員制度は本来国民が求めるべきことだ。

 貧富の差が拡大してなんとなくいらいらした世相の中、凶悪犯罪が起きると「死刑を!死刑を!」といった厳罰を求める声が出る。市民のフラストレーションが一部の犯罪者に向けられるといった構図はよくあることで、少々ひねくれた見方をすれば、この状況は「自分のほうに不満の矛先が向かってこない」という意味で、時の政権としては誠に望ましい状況である。この点、凶悪犯罪の裁判を「刑罰の相場にしたがう」裁判官に任せていては国民の不満もたまるだろうから、厳罰を国民自身にさせてみようではないか、というのが裁判員制度の実態ではあるまいか。ただ、国民は「お上」が思うほど愚かではないはずだ。死刑の選択を目の前にして、人が人に「死ね」と命令するというのはどういうことか、その重みを感じることだろうと思う。いずれにせよ、裁判員制度が施行されるならそれはそれで差し支えないが、今の状況は少なくとも変である。陪審法は大正時代にできたものの施行後まもなく施行停止されている。その状況は今も続いている。同じく裁判員制度だって、施行日は決まっていても再び国会で停止させることは可能だ。今一度じっくり審議してもよいと思う。

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