松本零士・ちばてつやトークショー☆レポートメモ写真その2☆ | ハープシンガー Nao Cumy なおくみ(西塔 紅美 PSYTO Cumy) の プライベートブログ☆

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ハープシンガー・シンガーソングライター・ケルティックハープ・ライアー・ヒーリング・女優・歌手・モデル・詩人
CM、TV、アート系洋画出演を経て東京ビッグサイトで歌手デビュー。
2017年イギリスでケルティックハープと出会い愛と祈りと感謝の音を歌い奏でている

松本零士・ちばてつやトークショー☆レポートメモ写真その2☆
アニメプロジェクト in 大泉2014☆5月18日(日)大泉小学校にて☆



昨年の松本零士先生のトークショーでは、”ご先祖様から受け継がれた遺伝子に組み込まれた記憶”のお話を伺えたので、今年はどんなお話が聞けるのか楽しみでした。

☆松本零士先生のトークショー☆2013-5-19 はこちら
http://ameblo.jp/psytocumy/entry-11534472397.html




☆松本零士・ちばてつやトークショー☆写真その1☆
http://ameblo.jp/psytocumy/entry-11855391258.html
で書いた、両先生のお茶目な登場シーンにつづき、トークはまず、お2人の出会いについて

「私が17歳、松本さんが18歳のときに、本郷の山越館でたまたま出会った。」と、ちばさん。
松本さんは当時、漫画家としてデビューされていたので出版社から呼ばれ、ちばさんは、そのころはまだ駆け出しだったためお手伝いとして、かんづめになったそう。
2人とも1月生まれで、と楽しそうに話してくださいました。



松本先生は、“何のためにこれを描くか”
目的意識に目覚めたお話しをしてくださいました。

当時、なかなかお風呂に入れない生活のため、いんきんたむしになってしまい、もう痒いなんてもんじゃなかったとか。
「この中でなったことある人は~」と松本先生が聞くと、会場の男性が半分くらい手を上げていました。

どうやら、それに効くマゼットローションというものがあるらしく、そのことを教えたくて漫画に描くと、「おかげで元気になりました!」「彼氏が元気になりました!」と、お礼の手紙がたーくさん、なんと、それだけで段ボール5~6箱分もの手紙が来たそうなのです。

「おかげで、今ではその薬の絵は私の絵で~いんきんたむしが助けてくれた。」と松本先生、会場は爆笑です。



宇宙に強い憧れを持つ松本零士先生

東大の糸川英夫先生のお話しや、宇宙飛行士の毛利さんと山崎さんのされている時計をデザインされた話、弟の將(すすむ)さんがデザインされた、隅田川を運航するヒミコやホタルナのお話しへと移ります。

ヒミコとホタルナのネーミングについて

ヒミコは、自分の生まれ故郷の九州からから取ったそうで、ホタルナは蛍と月のルナ、松本零士先生の作品『ホタルナ妖』の妖は、妖精の妖、だそうです。

ホタルナのガラスは6㎝の強化ガラスで歪まず、光線を通すと光ったり、なんと、隕石をも跳ね返すとか!?

すごいですね!



仲の良いお2人は、一緒に旅行へ行ったこともあるそうです。

それは、パリからリオデジャネイロまで飛ぶ、当時話題のコンコルドという飛行機での旅行。

音速よりも速いスピードで飛ぶコンコルド、もうすぐなくなってしまうからと、最後の旅行だ!と、ちばさんに誘われ、松本さん42歳のときフランスへ旅に出たそう。そこには、萩尾望都さんや、声優の麻上洋子さんなど、総勢15人みんなで行き、途中、ケニアの向こう、タガールで給油。

「音速を超えるとものすごい振動で、飛行機の窓は、小さくて丸く、片目ずつしか見れないほどだった」(ちばさん)

コンコルドの機長さんは漫画家志望だったらしく、父親がパイロットでもあった松本さんは、そのため操縦席に入れ、なんと墜落実験を行ったそう!!
操縦席のランプは全部赤く染まり急降下!

松本さん「あの当時は自由な時代でね~そういうことができた最後の時代、今そんなことやったら御用でしょ、あぁ、のどかな時代でしたよ~」するとすかさず、「いや、松本さんだけですよ!!」とちばさん。


そんなお2人がマチュピチュへ着くと、突然、霜が降り電光が走り、死にものぐるいで2人で逃げたそう!

マチュピチュは、海抜2000m以上もあり天候が変わりやすく、石段が胸に擦れるくらい急で、鎖で登るその場所は、今はもう登らせてくれないそう。
「落ちたら、もう見つからないくらいのジャングルが下にある危険な場所で、当時のガイドさんは、登りたかったらどうぞ、という感じだった」(ちばさん)




話は漫画に戻り、「漫画家は自由業なため、何回も首が飛んでいる」と松本さん。
ある日出版社に呼ばれて行くと、来月からもう描かなくていいよ、と言われるそう。

いんきんたむしと『銀の谷のマリア』この両方が合体して何とかなったとか。

宇宙戦艦ヤマトに出てくる、森雪というキャラは、以前もらった「彼氏が元気になりました!」というファンレターの手紙が、あまりに綺麗な字だったので、その森木深雪さんから名前を使わせてもらったのだそう。


松本さんのお父様は、陸軍航空隊のパイロットで、昔、成増にあった飛行場に最初に着陸されたのも、松本さんのお父様だそうです。

松本さんは北方領土も、ソ連のスクランブルも見に行かれ、その時、敵機に合い、赤いランプが6個付いていた!その飛行機には、木綿のハンカチーフで有名な太田裕美さんも一緒に乗っており、太田さんのマネージャーさんは「こんなボロには乗れない」と、逃げてしまったそう。
「そういうね、自由な時代だった、ジャンボでも何でも、そういう楽しい時代だったんです」(松本さん)


急降下実験の話では、松本さんが「今揺れたでしょ」と言うと、「気流のせいでしょ」と、ちばさん。「実は、私が…」と松本さんが実験のことをバラすと、トイレに行く!と言っても、2度と行かせん!と、ちばさんは松本さんを離さなかったのだそう。

もし、また、そんな実験をされると思ったら、きっと気が気じゃないでしょうね(>_<)



「漫画は今でこそ文化だとか言われているけれど、当時はあまり認められていなかった。昔は、親が寝てから漫画を描いていた」と、ちばさん。

いつも会うと、松本さんは、「腹へったー、座布団くらい大きなビフテキが食べたい!」と、あの頃は手塚治虫さんも、みんないつもお腹をすかせていたそうです。

石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、藤子不二雄さんと一緒にイタズラした話。
ちばさんは、しょっちゅうお風呂に入るから(実家が近かった?)たむしが移らなかったこと。
松本さんは、近くのスーパーにもよく買い物に行くそうで、タマゴ、ステーキ、ちりめんくるみ、いわしが好きで、スイカは丸ごと買ってきて、自分で叩き割らないと気が済まないことなど、まだまだ、お話は続きます。




道具を作るのが好きな松本さん、スタジオは机や資料がいっぱいだそう。
震災のときはちょうどスタッフが休みで、一人スタジオにいて、たくさんの資料が倒れてきたため、徹夜で一人で片付けた。と松本さん。
ちばさんは、練馬でトイレに入っていたそうです。


松本さんは25歳くらいで大泉へ来られ、ここは生涯の住処、もうどこにも移るつもりはないと、「もう夢のようです」と、大泉のお話を聞かせてくださいました。


当時、出版社からお金を借り、氷川神社の裏にようやく建てた自宅からは東映が見え、なんとなく漠然と、あそこで働くかも、と思ったそう。
駅へ行く途中の桜並木がキレイで、そのおかげで最初の作品である『蜜蜂の冒険』が描けたというほど、九州にいたころから愛用していた『牧野植物図鑑』の牧野博士の自宅も大泉にあり、大泉に越したことを父に話すと、父はパイロットの訓練中この上を飛んでいたため、あの道を曲がると何があって~と、ぜんぶ正確にわかり話してくれた。
父は大泉の桜並木を馬に乗り食事をしに行っていた。

当時は砂利道や田んぼだらけで、大泉にある丸いガスタンクについて、手塚さんが「日本は地震国なのにあんなものがあるのは恐ろしい」「転がったらどうするんだ!」と、恐れをなしていた話。
そして、昔、この地、伊賀は忍者の里、忍者の訓練場だったのだそう。
服部半蔵は氷川神社の前で亡くなったという話や、当時あった、木で作られた、びくに橋という、橋の名前ににまつわる悲しい伝説、氷川神社や伊賀神社のお話、

「そういう物語が、ここ自体にある」
「”不思議なえにし”があるんです」と松本さん。

ちばさんは、松本さんのお話を、とても上手に引き出していました。
司会の方も、とても上手で、勉強になりました!



(ちばさん)『あした天気になあれ』『あしたのジョー』は練馬区で描いた。
昔は、漫画家は女性が少なく男の仕事で、少女漫画も男が描いていた。
連載物は新人には隙間がなく、先輩から、少女漫画なら描かせてやると、若手漫画家の仕事でもあった。

(松本さん)「どうせなら、絶世の美女を描くのが夢で、猛練習した。そのおかげで、メーテルやエメラルダスが描けるようになった」

でも、そのうち女性の漫画家さんが出てきて、レースのカーテンや花や、女性好みのセンスの絵を描き、男はみんなクビになってしまったそう。

ちばさん「われわれは、すぐに部屋の隅にみかん箱とかを描いてしまう」
松本さん「女性がどんな服を着ていて、どこでどうなっているかなんてわからない。」
ちばさん「だから松本さんの女性はすぐ、いきなり裸になっちゃうもんね!」(笑)
松本さん「だって、その方が描きやすいもんねえ」


「実際に見て、知って、描くと、裏側までわかり、それが本当」と、松本さん。
写真だけだと平面、ウソの偽物になってしまうのだとか。
「私は地球をよく描いているけど、あれは本物ではないんだ」
「だから、帰れなくてもいいから(宇宙へ)打ち上げてくれ!と一生懸命言っているわけですよ」

ちばさん「でも、コンコルドで成層圏飛んでるんだから、宇宙行ってますよ」
下を見ると明るい地球の青、上を見ると宇宙の暗闇、そんな所まで、コンコルドという飛行機は飛んだそうです。



ある日、担当さんからキャッチボールに誘われ、体中から湯気が出るくらいに汗をかき運動したちばさん。その日、今日はもう手が震えて絵なんて描けないだろうと思ったら、すごく調子が良く描けた!そのころスランプ気味だったちばさんは、運動後シャワーを浴びるとすごく簡単にできたことを話し、「漫画家は運動しなけりゃいけない!」と松本さんを誘い、みんなで野球チームを作ったそう。

松本さんの背番号は、誕生日から取り25番!
でも、試合で人工芝に足をひっかけ、松本さんは肋骨を3本折って気を失ってしまった!松本さんはその1、2ヶ月前に父島に行き、風呂場ですべって反対側の脇腹を打ち、骨を3本折っていたのだそう。帰ってきたらまた反対側を打った!と、笑いながら話されていましたが、想像すると、とても痛そうですね。
松本さんは自転車で病院に行き、医者に「バカだ、歩いて帰れ」と怒られたのにもかかわらず、包帯を巻かれて、また自転車で帰ったのだとか。

松本さんのスローガン「飯食わざれば力無し」

ちゃんと、ご飯を食べましょう!とのことです。




トークショーの最後には、その場でイラストを!

ちばさんは『あしたのジョー』の矢吹丈を、ダイナミックにササーっと


松本さんは『銀河鉄道999』のメーテルと鉄郎を、とても丁寧に描いてくださいました。


「松本さんのカラー、色が好きで、昔の雑誌のカラーは4色のものはなかなか回ってこなくて2色だった。松本さんの絵は2色でも総天然色のように見えて、すごく上手だったのを覚えている。」と、ちばさん。

「そのころ、インスタントのチキンラーメンができたばかりで、松本さんが作ってくれたが、押し入れに生えたきのこを取ってきてラーメンに入れ食べさせられた」(ちばさん)
そのキノコが、どうして押し入れに生えたかは、松本先生が詳しく話してくださいましたが、、ここには書けません(>_<)!
「図鑑に”食”と書いてあったから食用だと思ったが、後から学者に聞くと、食用ではなく、”食べても毒にならない”だけだった」「今も元気だから大丈夫」と松本さん。
ちばさんは「あれから毛がぬけちゃうしさ、髪の毛白くなっちゃうしさ」と会場の笑いを誘いました。


その他にも、「2人でアマゾン川を泳いだ」(ちばさん)
「ピラニアを刺身にして食べちゃった」(松本さん)

などなど、すごいお話しがたくさんでした!


トークショー後、両先生が描かれたイラストには、ファンが殺到!!




松本零士先生のお話を聞いて、その土地が持つ物語、今ここにいること、
縁や繋がりについて、改めて考えてみました。

その場所に生まれたことや、その土地に住んでいること、
きっと、すべてのことに意味があるのでしょうね☆


松本零士先生、ちばてつや先生
とても楽しいお話を、ありがとうございます!

西塔紅美/Nao Cumy