15日の産経にマラソンの有森裕子さんが聖火リレーへの「妨害」行為について、コメントしている。

「聖火リレーをつないだからといって中国の味方ではない。

世界中の国が参加するオリンピックは今やビジネス化されており、完全に政治から切り離すことはできな

いけれども、今回のような(チベット問題に絡めた)抗議やバイオレンス(暴力)は問題があると思う。

抗議内容がどんなに理にかなっていたとしても、オリンピックは平和の祭典であり、

純粋にスポーツのすばらしさを知る大会。

暴力による抗議活動を行う人は(チベット仏教最高指導者の)ダライ・ラマの『非暴力主義』に

きちんと耳を傾けてほしい。

長野の聖火リレーでは、リレーランナーの一人として混乱が起きないことを強く願っております」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080414-00000949-san-spo

 有森さんが北京オリンピックを弁護するのは、人それぞれ立場があることでそれは構わないし

自分の意見を言うのは良いことだと思う。

しかし、私は有森さんの言っていることには、矛盾があり強弁があると思う。

近代オリンピックが現在まで続いているのは、開催国が国威の発揚に政治的に利用してきたからである

し、近年特に、商業主義とは切っても切れない関係にあるのは周知の事実だ。

それだけではなく、近代オリンピックの出発点は、「人間の尊厳に重きを置く平和な社会の確立を奨励す

る」ことを目的とした、スポーツを手段とする「平和の祭典」を開くということにあったはずだ。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EA%A5%F3%A5%D4%A5%C3%A5%AF

だから、近代オリンピックにおいて「政治とスポーツ」は本質的に切り離すことは出来ない。

 「オリンピックは平和の祭典」「純粋にスポーツのすばらしさを知る大会」と有森さんは、

主張するが、今現在チベット人たちの「人間の尊厳」を踏みにじっている国において開かれる

オリンピックを「平和の祭典」と呼ぶのは信じ難い。

「人間の尊厳に重きを置く」社会にあって初めて「平和」という言葉は意味を持つ。

チベット人たちが虐殺されているのを無視して「平和の祭典」と主張するのは、

チベット人を人間扱いしていないのと等しい。

「スポーツのすばらしさ」という言葉も、「人間の尊厳に重きを置く」社会にあって初めて意味を持つは

ずだ。

単に身体能力を競うだけだったら、人間より優れた動物や昆虫はいくらでもいるだろう。

中国のチベット人に対する人権弾圧を、聖火リレーの場において抗議することが、

「人間の尊厳に重きを置く」ことと反することだろうか。

 有森さんは「ダライ・ラマの『非暴力主義』に耳を傾けてほしい」と主張するが、

それならダライ・ラマの「中国政府と対話したい」という言葉にも「耳を傾けてほしい」。

「ダライ・ラマの言葉に耳を傾けて」と、聖火リレーへの「妨害」行為を批判するなら、ダライ・ラマと

の対話を拒否する中国政府も批判しなければフェアとは言えない。

 有森裕子さんだけでなく、星野仙一氏や萩本欽一氏など聖火ランナーに名を連ねる者は、

もし出走するならば、中国のチベット人に対する人権弾圧の「共犯者」となることを肝に銘じるべきだろ

う。