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 世界の大帝国として君臨したオスマン帝国には、多くの宝石や貴金属が集まり、トプカプ宮殿には、そ

れら素材を使った豪華絢爛な文化が開花した。

宮殿には、最盛期には、600人以上の職人が制作に励む、宮廷工房が存在した。

「トプカプ宮殿の至宝展」には、当時、造られた美術品が多数出品され、それらは、帝国の繁栄、栄華を

伝えるには十分なものなのだが、オスマン帝国の「文化」と言うにはなにか不足しているように感じる。

 帝国の君主であるスルタンと、母后や妃と身辺の女性たちの私的な住居空間であるハレム(後宮)は、

単なる「大奥」ではなかった。

ハレムは、スルタン一族となった女性たちの、最盛期には千人近くから成る、巨大組織であり、女性たち

は、豪華な器物に囲まれ、ファッションの先端をゆく衣服を着、繊細優雅な装飾品を身につけて暮らし、

シャーペットなどのオスマン食文化を堪能していた。

華麗な宮廷文化を体現した彼女たちではあったが、しかし、清少納言や紫式部はついに出て来なかった。

 当時のキリスト教は、異端尋問で多くの犠牲者を出し、異教徒にも不寛容だったが、少なくとも中世か

ら近代初期までのイスラム教は、寛容だったし、オスマン帝国は、ヨーロッパよりはるかに開かれた社会

ではあった。

しかし、イスラム教の偶像禁忌のため、彫刻や絵画は、発達せず、そのためにオスマン帝国で芸術的志向

を持った者は、装飾彫刻や建築、書道に全エネルギーを費やした感がある。

また、イスラム社会の常として、散文に対して韻文が圧倒的に優勢であった。

16世紀には、詩人バーキーが活躍し、スルタン自身が詩を作り、トルコ文学史に名を残す者もいるよう

だ。しかし、詩は異文化にいる者には、理解するのは難しい。

 初期の頃のオスマン帝国の人々は、聖者崇拝や、神秘主義の強い影響を残した、素朴な辺境のイスラム

教を信じていたのだが、体系化された理論を持つイスラム法学者たちが流入、養成されることによって、

オスマン帝国自身が、厳格なイスラム教の規定に縛られるようになった。

思想や学問にも枠がはめられるようになり、文学も制約を受け、詩作のみが許され、思想性を含む長編小

説は書かれなかったということか。

トルコ文学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E6%96%87%E5%AD%A6

オルハン・パムク
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200610120396.html

参考図書

「トプカプ宮殿の至宝展」図録

オスマン帝国 鈴木薫 講談社現代新書