昨年9月、埼玉県川口市で、保育園児らの列に車が突っ込み、21人が死傷した事故で、業務上過失致死傷罪に問われた被告の判決公判、3月16日、さいたま地裁であり、同罪で最高刑の懲役5年を言い渡した。
公判では、遺族が「4人の命が奪われたのに窃盗罪(最高刑・懲役10年)を下回るのはおかしい」と訴えた。
判決後、遺族が記者会見し、父親の一人が「(被害の大きさからみると)懲役5年では無罪に等しいが、検察側も誠心誠意尽くしてくれたと思う」と述べた。
この事故を巡っては、遺族らが危険運転致死罪(最高刑・懲役20年)の適用をさいたま地裁に要望、さらに法務省に対し、業務上過失致死罪の最高刑が窃盗罪よりも重くすることを求め、21万人の署名を提出した。
法相の諮問機関の刑事法部会は、2月28日に、自動車運転過失致死傷罪(懲役・禁固7年以下)の新設を、諮問通りに、20日間の審議でスピード決定し、3月13日には政府として閣議決定している。
遺族の感情として、被告を厳罰に処したいのは、よく分かるし、誰でもその立場に置かれればそう思うだろう。
しかし、もし遺族の感情で、刑の重さを決めるのであれば、すべての犯罪は極刑を科せられることになるだろう。
被告は、法定速度60キロのところを55キロ以下で走行していたようだが、裁判では「被告が助手席のカセットテープを入れ替えるため、前を見ないまま片手運転でアクセルを一気に踏み込み、急加速した」と認定された。
しかし、はっきりしておかねばならないことは、認定通り、重大な過失があったとしても、過失は過失であり、故意ではないということだ。
過失でも重大な結果をもたらせれば、重罰に処すというのであれば、行き着くところ、昨年10月6日の日刊ゲンダイで、評論家の日垣隆氏が主張したように、脇見運転なども危険運転致死傷罪、さらには過失致死傷罪が適用されることになる。
脇見も重大な過失とするのは、人間の心理、生理現象を著しく無視した考えである。
過失であったとしても、重大な結果となれば、重罪に処するという考えは、個人個人が神と相対する欧米の社会より、集団の和の中に生きている日本の社会の方がずっと強いのだろう。
それは、「世間を騒がせ、迷惑をかけて、申し訳ない」という言い方にもよく現れている。
そういった、日本の社会特有の考え方が、元来、ドイツ、フランスの法思想、法哲学を模範に作られたわが国の法の、交通事故の刑罰に表れ、刑法を変えつつあるということだろう。
今回は、見送られたようだが、飲酒運転の場合、酒を提供した者、同乗者も同等に処罰するという、個人の自由意志はどこに行ったのか、という法改正の動きもあった。
過失であっても、交通事故は厳罰化するというのであれば、重大な結果をもたらせば、故意の殺人よりも重罪となるという、著しく整合性を欠いた法体系になるだろう。
航空機ニアミス事件の記事でも触れたことだが、結果責任により罰を決めるという考えは、非力の人間が、巨大な機械、システムを操る、現代社会、文明に適応していないのでないか?
公判では、遺族が「4人の命が奪われたのに窃盗罪(最高刑・懲役10年)を下回るのはおかしい」と訴えた。
判決後、遺族が記者会見し、父親の一人が「(被害の大きさからみると)懲役5年では無罪に等しいが、検察側も誠心誠意尽くしてくれたと思う」と述べた。
この事故を巡っては、遺族らが危険運転致死罪(最高刑・懲役20年)の適用をさいたま地裁に要望、さらに法務省に対し、業務上過失致死罪の最高刑が窃盗罪よりも重くすることを求め、21万人の署名を提出した。
法相の諮問機関の刑事法部会は、2月28日に、自動車運転過失致死傷罪(懲役・禁固7年以下)の新設を、諮問通りに、20日間の審議でスピード決定し、3月13日には政府として閣議決定している。
遺族の感情として、被告を厳罰に処したいのは、よく分かるし、誰でもその立場に置かれればそう思うだろう。
しかし、もし遺族の感情で、刑の重さを決めるのであれば、すべての犯罪は極刑を科せられることになるだろう。
被告は、法定速度60キロのところを55キロ以下で走行していたようだが、裁判では「被告が助手席のカセットテープを入れ替えるため、前を見ないまま片手運転でアクセルを一気に踏み込み、急加速した」と認定された。
しかし、はっきりしておかねばならないことは、認定通り、重大な過失があったとしても、過失は過失であり、故意ではないということだ。
過失でも重大な結果をもたらせれば、重罰に処すというのであれば、行き着くところ、昨年10月6日の日刊ゲンダイで、評論家の日垣隆氏が主張したように、脇見運転なども危険運転致死傷罪、さらには過失致死傷罪が適用されることになる。
脇見も重大な過失とするのは、人間の心理、生理現象を著しく無視した考えである。
過失であったとしても、重大な結果となれば、重罪に処するという考えは、個人個人が神と相対する欧米の社会より、集団の和の中に生きている日本の社会の方がずっと強いのだろう。
それは、「世間を騒がせ、迷惑をかけて、申し訳ない」という言い方にもよく現れている。
そういった、日本の社会特有の考え方が、元来、ドイツ、フランスの法思想、法哲学を模範に作られたわが国の法の、交通事故の刑罰に表れ、刑法を変えつつあるということだろう。
今回は、見送られたようだが、飲酒運転の場合、酒を提供した者、同乗者も同等に処罰するという、個人の自由意志はどこに行ったのか、という法改正の動きもあった。
過失であっても、交通事故は厳罰化するというのであれば、重大な結果をもたらせば、故意の殺人よりも重罪となるという、著しく整合性を欠いた法体系になるだろう。
航空機ニアミス事件の記事でも触れたことだが、結果責任により罰を決めるという考えは、非力の人間が、巨大な機械、システムを操る、現代社会、文明に適応していないのでないか?