『いじめの構造 いじめっ子先生といじめられっ子』の記事に書いたが、息子のこの一年間はひどいものだった。きちんと指導したい真面目な女の担任にとっては、注意欠陥多動障害などという特徴を持った男児が一番厄介な存在とうつるだろう。息子には多動症状はないため、これまでの学年の担任から何か注意を受けるということはなかったが、前学年の担任である、きちんとしたい・させたいという特徴が強い、発達障害に理解のない教師にとっては、注意欠陥の症状がある息子は、最悪の相性だった。
息子は、宿題を忘れはしないのだが、宿題の日付をどうしても何度も書き忘れてしまう。また、縄跳びを持って校庭に出たら持って出たことを忘れて帰ってきて失くしたと思い込んでしまう。たびたび担任からの叱責を受け、それでも息子のうっかり癖が全く改善しないことを理解できない担任、そして、どうがんばっても担任の望むようなしっかりとした児童になれない情けない息子は、いじめっ子といじめられっ子の関係にはまり込んでいった。
母親である私はというと、最初は、先生の指導方針についていこうと、息子の不注意をカバーするように動いていたが、準備物のハサミやノリを用意するのを忘れる息子に、「ランドセルに入れておくよ」と準備を補助してやっているのにもかかわらず、学校でいざ必要となった時には、ランドセルにあるハサミやノリを探し出せずに、入れ忘れてしまったと勘違いして怒られるということが続くし、担任の叱責も、謝っても謝っても「なぜ忘れるんですか!」と答えようのない質問が何日も続くという状況になってきた。
ひどい状況が起こるたびに、私はまるでいじめっ子といじめられっ子の仲をとりもつ教師のように、息子の特徴を説明し、ご迷惑を謝罪し、少しおおらかな目で見てもらえるようにお願いした。その時点では担任は理解を示したそぶりをしめすのであるが、担任の態度は一向に変化が見られずひどくなる一方で、息子は転校したいと学校へ行き渋るようになり、爪噛みはひどくなり、指からは血が出るようになった。
そんなこんなで、自分の力ではどうしても解決することができない状況に追い込まれた私は、地域の発達支援センターは電話をかけた。電話では詳しく内容を聞かれ、3か月後の予約がとれた。
3か月後の来談日には、学年が変わり、担任が変わり、保護者にはろくに挨拶もされないし、宿題もほどんど出されないそっけない先生だが、子供たちをザリガニ釣りに連れていってくださったり、アリの観察を一緒にしてくださったりと大変かわいがってくださる男の先生になり、息子は「先生はかっこいい男!」と言い、毎日学校へ行くのが楽しみになっていた。担任が変わったことで、私たち親子には平和が訪れた、発達支援センターに行く必要性も感じなくなっていたところであったが、せっかくとった予約だからと、息子とデートのつもりでハンバーガーを食べたり、ゲームをしたりした後に、街中にある発達支援センターに行った。
行ってみると、できたばかりのセンターは明るくきれいなところだった。まず精神科医の初老の男性との面談だった。臨床心理士とケースワーカーのような方二人が同席しておられた。
精神科医の先生は、まずは息子になにが好きか、何をして遊ぶのが好きか、などと問われ、息子は漫画を読むのが好きなこと、河童の三平、オバケのQ太郎、天才バカボンなどの漫画をピアノの先生が持ってきてくださること、習い事の中ではピアノが一番好きなこと、昆虫をたくさん飼っていることなどを話した。
続いて先生は、母である私に向かって、息子の良いところについて尋ねられた。私は、お兄ちゃんと結婚したいと言われるほど妹に優しいこと、息子が多くの友達から慕われていること、友人がいやな目にあっていると、かばって戦い、友人がいやな目にあっていることを思い悩んだりすることなどを話した。お手伝いもたくさんしてくれることなども話した。
そういうことを話しているうちに、息子の良いところは、他人を喜ばせることを自分の喜びと感じているような点かもしれないという思いに至り、先生にそう答えた。これまで育児雑誌などでたびたび目にしたことのある『子供さんの良いところを三つ言ってみましょう』的な問いかけであったが、家事も仕事もできない診察室の中で、温かい眼差しで聴いてくださっている専門家を前にすると、これまで浮かんだことのない、しかし、本質的な答えが浮かぶのだなという驚きがあった。他者を喜ばせることが自身の喜びにつながるという性質は、息子の人格の基盤となる長所のように思われる。
箱庭やコラージュなどの作品であれ、クライエントさんが作ってくださる作品は心を打つものがあるが、一般に、それらはカウンセラーを目の前にしてカウンセリング室という特別な場所で作成するからこそ深い作品ができると言われており、私自身もそのことをカウンセラーとして体感していた。しかし、今回は、クライエントとしてそれを体感することができた。自宅で同じことをするのと、真摯な態度で心をくだいて聴いてくださる相手を前に特別な部屋で同じことをするのは、やはり、全く違うのである。
先生は、『そうですか~、いいですね~!!今、そんな子は珍しいですよ。誰かの喜びが自分の喜び!なかなかいないですよ。社会のため、みんなのためにの、●くんのような人が必要ですよ。すばらしいですね!!かわいいな~。僕の息子にしたいくらいだな~ハッハッハ』と文字にしたら滑稽なくらいのお褒めをいただいた。15分くらいのそんな会話が続いて、息子は臨床心理士と共に別室で知能検査を受けることになった。
私はその部屋に残り、今度は息子の困った点について話すこととなり、登校前の朝の支度をするときに、歯磨きをしようとしてどの部屋にいけばいいのか分からず部屋の中を一周したりすること、お皿を持って台所にいくつもりだったことを忘れてお風呂やトイレに行ってしまうことなどを話した。
その後、ケースワーカーさんとの私の面接が1時間半くらいあり、成育歴を丁寧にとってくださった。私は、担任の理不尽な教育姿勢に腹立たしい思いをしたこと、息子のうっかり不注意がどれほど大変だったかという話や、それを笑ってみていられる時と、例の担任と同じように冷酷にあしらい人格を否定するような言葉で叱責してしまう時があること、また、夫とのしつけに対する考え方の違いに困っていることなどを、彼女に促されながら順を追って話した。その中で、ケースワーカーさんは『自分も担任との関係で困ったことがあり、これは違うのではないかという事があったときには、はっきりと先生に物を言いました』、『私も反省してばかりの育児でした。いつも平穏ではいられません。』などと、ご自分の体験も少しだけおりまぜながら、ただただ共感的に聴いてくださった。私は、自分と息子の歴史を、心から知ろう・理解しようとしてくださる相手に一時間以上も共感的に聴いてもらうという体験をした。初めての経験だった。
帰宅後の私の日常はというと、息子の行動を、馬鹿にし蔑む代わりに笑える頻度が上がった。私のクライエント体験は、一つの批判もなく共感的に聴いてくださる方に向かって、順を追って自分の歴史を振り返る体験であった。そのことは、自分の中に、これまでと異なる視点をもたらしたような気がする。今、息子の失敗やうっかりに直面したときに、自分の感情に巻き込まれずに対応でき、かわいらしいとさえ思える私がいる。その感覚は、すべてを客観的でありながら共感的に聴き続けてくださったケースワーカーさんや、『かわいらしいな!!息子にしたいくらいだな!』と笑ってくださった精神科医の視点を自分の中に内在化させたような感覚である。
私は、今回のクライエント体験により、母親としてとんでもなく大きな収穫があったが、それだけでなく、カウンセラーとして感じていた迷いも消えていった。古典的な精神分析の考え方では、分析家は、自身の情報はできるだけクライエントに分からないようにするのが良いとされる。分析家の個人的なことがクライエントに影響しないようにとの配慮からである。
しかし、カウンセラーがわざわざ意味もなく自分の話をする必要はないが、カウンセラーが必要に応じて、自身の内面からの気持ちや考えをもらす程度のことはあってもよいし、クライエントにとってそれが有益だと判断される場合には、意図的にカウンセラーの考えや感想を述べることはやってよいことだと思っている。
今回の「息子にしたいくらいだな」などと言ってくださる精神科医や、自身の母親としての体験を語りながら母親としての労をねぎらってくださるケースワーカーの態度は、まさに私のカウンセリング室での態度と重なるものであり、クライエントである私はそれを大変心地よく受け取り、帰宅後の日常にまで良い影響を及ぼし続けた。
しかし、様々な態度の精神科医やケースワーカーがいる中で、私と息子ペアは相当な当たりくじを引いたのかもしれない。本当にラッキーだった!!
