人口内耳で音が聞けるのは良いことか
きのう難聴の話を書いて思い出したビデオがある。このビデオは去年僕が見た映像物(映画など)でもっとも印象に残ったもの。深く考えさせられる。ドキュメント物で全て実際の人たちの生活の映像だ。ビデオは二組の夫婦の話。二組とも自分の子供に聴覚障害があると知るが二組は違った対応をしていく。なんと夫婦Bの方は聴覚障害のある子供に人口内耳の手術を与えないんだ。つまり一生この子供に聴覚障害を持って暮らさせることを決断する。この過程が興味深い。
夫婦Aは聞こえる社会で暮らしている。この夫婦Aは子供に人口内耳の手術を決断する。これにより、この子は手話も学ばないし、普通の学校に行って聞こえる社会で生きていく事が決められる。
逆に夫婦Bは聴覚障害のある娘に手術をしないと決める。外国語と同じで(または臨界期がより早期にあり)この年齢(6歳くらいだったかな)の時に人口内耳の手術をしないということは、例え今後に手術をしても音による会話はもうナチュラルにはならない。この子は一生、手話に頼って生きることになる。
夫婦Bが娘に手話の世界を選んだのには訳がある。両親とも聞こえなく、手話の世界で生きていること。彼らに言わせると、聴覚障害者の世界の文化(deaf culture)は手話でしか築けず、音による会話を学ばせることは娘を手話から遠ざける、と言う。
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耳の聞こえる僕らにとっては子供に音を与えないなんて馬鹿げた決断にみえる。このビデオでは特にどちらが良いとかは語られずに、ひたすら中立に徹しているようだ。そして視聴者に自分で考えるように促しているようだ。これを見て僕が感じた意見は、僕はこの親の判断は親としてとてもよく考えていると思う。
この問題は日本人の英語学習にとても似ていると思ったよ。英語の方が世界では広く使われる言葉なので音の社会と見立ててみる。日本語は一部の地域の言葉なので手話の社会と見立てて見る。英語の方が世界では役に立つだろうけれど、子供に英語の世界で生きろ、なんて親はまず居ない。親が日本語を喋るんだから、子供も日本語の世界で生きるのが普通だと思う。
音を聞ける人には聴覚障害の世界は不便だと思うかもしれない。同じように英語を喋る人にとっては日本語の世界は不便だと感じるかもしれない。だけど日本人は日本に立派な文化があって、英語を知らなくても満足できる世界だと知っている。
この対比から考えると、ある文化の外に住んでいる人間はその文化に口をはさむ隙間が少ししかないことを感じる。耳の聞こえる人が聴覚障害者に人口内耳の手術を強制することはできないと思う。
このビデオは他にも見るべき点が山ほどあるんでお薦めです。去年、図書館で一回見ただけなんでうろ覚えだけど。
ここで映像の一部を見れる(手話は声優さんが音をかぶせてくれている)
http://www.pbs.org/wnet/soundandfury/film/video.html
ビデオ販売:(日本語版があるかは知らない)
タイトル: Sound & Fury
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