ども、るん♪ですよね
あるよね、うんあるある


漫画のネタになる為のシナリオを書くにも、まずは小説形式で書きたいなと
シナリオ形式というものは、見ていて味気ないものなので想像力が膨らまない

なので元ネタを、ボロボロっとたまに書いたりするんですね

あと、私は小難しい漢字をちょろちょろ使いすぎているようなので、
変換時は気を付けたいです


扱うテーマは「原罪」、
つまりは、古典的キリスト教が教える「罪」について扱う
これを、カトリック伝承と言われている「七つの大罪」に沿って七話構成で順次追っていく形
まぁ、大したことじゃこざぁせん
使い古されたテーマでさぁ

それに合わせて、現代の社会問題や、
現代人に潜む心の闇(ってなんじゃらホイ)を描けたらと
ふむ、我ながら崇高なテーマにあるまいか!


作品全体を通して、
「悪魔」というおどろおどろしい色物を扱っていくわけなんだが、
ここで「悪魔」のイメージをガラッと変えておきたい

というより、古来より一般に広まった「悪魔」のイメージは、
“間違っている”としたい
一般人の間のイメージもそうだし、
キリスト教徒ら関係者のものもそうだとする

「悪魔」と言えば、“人間に罪悪を起こさせる者”故に魔性とされる、
何らかの霊的な存在、もしくはモンスター
時に、魔術を嗜む者によって召喚され、
契約に基づいて力を貸す、そんな存在
その起源は、神に対抗した堕天使である

まぁ、これが全体的に“誤り”であると私は言いたいわけだ

まず、歴史的に“誘惑者”と称される“サタン”だが、
サタンが人に罪を犯させるといった描写は、
聖書聖典66巻には見当たらない
全て、人類の自発的意思によって罪は生まれている

また、悪魔は人によって召喚されない
悪魔の召喚は「ソロモン魔術書」などによって記されているが、
このような書籍はハッキリ言って捏造、
良く見ても古典的ライトノベルと言ったところか
あくまでファンタジー的題材だとしか言いようがない

そして、悪魔が神に敵対する勢力であるという考えについてだが、
ここには異端の匂いがプンプンする
キリスト教は古来から異端を厳格に排除してきたが、
その異端の考えの基本に「二元論」という思考がある
二元論は、物事を善悪や優劣の二種類に分化し、互いに対抗させる考え方だ
これは非常に便利で、宗教に限らず様々な学問分野に応用されているが、
あくまでギリシャ文明以降の思考法であると言える
それより古いキリスト教文化には、適用すべきではない
つまり、キリスト教には、「神の支配から抜け出て能動的に対抗する勢力などはありえない」ということになる
旧約聖書における“堕天使ルシファーによる反逆”と捉えられがちな箇所は、
あくまで当時の暴君バビロン王と、その時々の誤った支配層に対する表現であるとするのが素直な解釈だ
悪魔という存在が神の管轄下であるという考えは、旧約聖書の他書簡であるヨブ記冒頭を見ても明らかだ

というわけで、“悪魔”は誘惑者ではない、
つまり人間に罪を犯させる存在ではない、
そして、人間に召喚される存在ではない、
また、神に対抗する存在ではない、
ということになる


そうなると、問題が残る
ひとつは、悪魔でないならいったい何が、人間に罪を犯させるのか
もうひとつは、それでは悪魔とはいったい何なのか
そして最後に、神はなぜ人に罪が入るのを容認したのか
……の三点である


一つ目、人間に罪を犯させるものは何か

この前提として、“罪”というものが独立して存在し、
また、人間はデフォルトとしては罪を犯さないという事が定められている

“罪”とは何かと言えば、それは“神の望まざる全ての要素”であると言える
では神とは何か、その答えは、“絶対的、至高的、永続的に「愛」である存在であり、唯一の、創造主にして支配者、主権者”と定義する
「愛」について説明を求められれば、
それは慈愛や博愛、正義や献身などに、言い換えても良い
人間には、一時的な感情として愛を表す事しかできないが、
神はその「愛」のイデアそのものであると言える
その神の意にそぐわないのが“罪”であるなら、
“罪”とはつまり、“愛せない”という状況であるとも言える
むしろ、“罪”のせいで“愛せない”のだ
言い換えれば、“罪”が原因して“罪”を生む
人間に“罪”を犯させるのは、“罪”そのものだと言えるわけだ
これは、人間一個人の中で発生する伝染病であると同時に、複数の人間集団の中で伝染する病でもある

そして、“罪”のもとである“罪”といった具合にルーツをたどれば、ひとつの源に行き着く
それが“原罪”であると定義付けよう
“原罪”とは、罪のソース、つまり源である
この“原罪”は遺伝病であり、人類の父祖アダムの霊的遺伝子に組み込まれた「失楽園遺伝子」であると言える
つまり、アダムから生まれた全人類に同じ遺伝子があり、
時間と空間をまたがった“原罪”という巨大存在を表出しているのだ
この“原罪”をソースとして、“罪”というベクターウィルスが発生し、人類の間で互いに悪影響を及ぼしあっているわけだ

つまり、そこに悪魔の干渉は無く、
ただ神が作り上げたこの世界の普通の遺伝子やウィルスと同じように、
自然支配の原理で“罪”は蔓延していると言える
しかし、それでは小説としておもしろくないので、ここに人格的要素を盛り込もう
あまりにキャラクタライズしても口説いだけなので、モンスター的なものとしよう
“罪”とはつまり、神の存在を見かけ減算する虚無的存在
神の計画する方向が実在の方向なら、真逆を必ず差す虚無
人は心と社会に“虚無”を飼っていて、これが人の原罪そのものと考えよう

“虚無”の目的(とはいえ、意思を持たずただ現象的に活動するだけの存在だが)は、
霊長たる人類および全ての創られしものの完全なる死
新約聖書の一端にある、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」の、
“欲”を悪い欲、つまり原罪に基づく、「神から奪う」という衝動と解釈し、
“死”を完全なる死、つまり虚無化、さらに言うなら「神という実在とは真逆の完全なる無」と解釈する

なるほど、なかなかどうして筋は通っているじゃないかぁ


二つ目、悪魔とは何か

既存イメージを失った“悪魔”には、どのような役割を与えるべきか
やはり、本来の聖書記述に則るべきだろう

“悪魔”とは、神の支配下で神の使命を忠実に全うする存在にしかすぎない
つまりその存在は“実”であり、先の“原罪”のような“虚”ではない
言うならば、“天使”と何ら変わりは無いのである
汚れ役や憎まれ役、そして生け贄的役割を担わされた“天使”こそが、“悪魔”であると解釈しよう
ここで“天使”については厳密には定義しない
本編に登場させる意義を感じないからである
まぁ、人間よりも完成された霊的存在で、神のしもべであると思えるなら充分
また、神は天使を差し置いて、人類を“最愛の創られしもの”としている点も重要か

悪魔の化身とされる巨獣は、世界終末の日には人間の食物として調理される
この描写は、私にとっては「最期の晩餐の説教」の内容、キリストの血肉として葡萄酒とパンを食す聖餐の礼と、矛盾なくリンクする
また、同じく終末の日に焼かれる古き竜(悪魔)は、十字架に死したキリストとの対比にも見える
“悪魔”は邪悪な存在と言うよりも、悲哀に満ちた生涯を送る天使のように思える

また、“悪魔”は、人類の前に“試練の壁”として立ちはだかる
もちろん、神の許可の下である
ここには、人類が罪を犯す、つまり虚無へ向かうリスクが伴う
しかし、神の目的が人類の虚無化ではないのと同じように、悪魔の意図も違う
その目的は、虚ではなく実を選択させることであるはずだ
視点を変えるなら、“虚と実の境界線という最前戦で戦い、実を死守すること”が、悪魔の目的であると言える
“虚無”が“悪魔”自身にも干渉してくるならば、“悪魔”は自己修復も試みなくてはならない

そして、様々な悪のレッテルを総括して受け持つのも、“悪魔”の役割である
歴史的に人類は、罪悪を“悪魔”のせいにしてきた
創世記冒頭のエバも、自らの罪を蛇(悪魔)のせいにした

そういうわけで、“悪魔”の役割は以下の三つ
「人類の試練の壁として、神の下へ人類を向かわせる」
「人類の悪評を一括してその身に受ける」
「終末の日に生け贄として終わりを迎える」
全く報われない、悲壮の使いなわけだ
しかも“悪魔”は堕天使とならず、人間の受ける寵愛にも妬まず、神に従順・人に慈愛の一心なのだから泣かせるではないか


そして最後に、原罪はどのようにして入ったのか

この問題は、キリスト教でも古来から議論され続けてきたことでもある
つまり、創世記冒頭の失楽園の箇所である

エバに、“善悪の知識の実”を取ることを囁いたのは、蛇と呼ばれる“悪魔”だった
しかし不思議なのは、失楽園以前から“悪魔”が存在している事である

人類の原罪は、“善悪の知識の実”を手にした時から発生していたと言われる
では、人類に原罪を入れたのが“悪魔”だとして、“悪魔”に原罪を手渡したのは誰なのか

まず、それは神ではない
神は至高最善であるゆえに、原罪を持たない
言い換えるならば、完全な“実”は、“全てを持つ”という意味であり、
完全な“虚”は、“何一つ持たない”という意味であるので、
完全な“実”である神性は、完全な“虚”である原罪を持たないことで、初めて完全なのだ

とはいえ、それは同時に無限数の“虚”を持ち得るということでもある
それは、1から0を何度引いても変わらないのと同じである

しかし、0は何に足しても変化は与えない
人間に渡された“虚”は、もっと別のものだったのだ

悪魔は誰からも原罪を受け取っていない
故に、人類に渡してもいない
では、原罪はどこから来たのか

天地創造の際、まず、完全なる無の中に、絶対的な神のみが居た
完全なる無というのは、絶対的な神ひとりだけが存在して初めて完全なので、ここに特に矛盾は無い
また、無とは、実虚ともに存在しない状態のことだ
そして、神が選択した創造のフィールドは、「荒地のような地、形の無い海」だった
これは、言い換えれば混沌である
混沌とは、実虚入り乱れた状態だが、虚数の定義的に言うなら、この状態は“虚”なのだ
そして、その後の天地創造により、“実”は広がった
“虚”は、外へ追いやられたのである

混沌とは無秩序状態のことであるが、つまりエントロピー増大により、秩序を無秩序へと変化させる方向へ働く
つまり、まるで洪水による氾濫のように、秩序たる世界に流れ込まんとし、人の心には原罪という形で干渉せんとする

神の計画は常に“実”であり、それは平地に王国を立てるようなものであるから、
それに逆行する混沌虚無の働きは、必然的にことごとく神に逆らう形になるわけだ

“悪魔”は、その氾濫する水のダムであり、高波の防波堤でもあるわけだ
人類と虚無が接触する直前に、ワンクッションを置くというか
もし“悪魔”が挟まらなかったら、人類は否応なく虚無に染まってオシマイになってしまうのだから



いろいろ書きましたが、中心題材として扱う「悪魔」について明確化が済みました
まぁ、キャラクター化する際には、さらに意外な要素を盛り込むのが腕の見せ所な訳ですけども!

今度は、各話のプロットを掘り下げる必要があります
あ、あとキャストを組まねばなりませんね
その前に、世界観を設定せねばだわ


なんだかんだで、漢字を使いすぎですかね
精進せねば……


るん♪でした
どうもどうも、るん♪です


マンガを描く題材を日ごろから書き溜めておきたいと思う常日頃
重い腰は少しだけ上がっているようです

昨日、非常に興味深い夢を見ました
そもそも、夢を見るのは久しぶりかもしれません
その夢の内容が、うまい具合にショートショートだったので、
ちょっと書き起こしてみました

赤色の街・死守作戦

多少の脚色は加えましたが、まあそのまま夢の内容です
あくまでショートショートなので、非常に短い話です

ミリタリー物っぽいのは、夢がそういう感じだったからです
SFっぽくなっているのは、私がSF好きだからだと思います
にしても、本当に奇妙な夢ですね
なんとなく現代風刺な気がしないでもない

短く話を纏めるのは非常に難しいですが、
マンガを練習する際もまずは短い作品から
「完成」させることに慣れるのが重要なのだそうです

つまり、そういうマンガには、これくらい短い話が原作になるべきなんでしょう
ショートショートを練習する意味はありそうですね


るん♪でした☆
るん♪です、最近は気候の変化が落ち着かないですね!
新型など流行傾向にありますので、お風邪を召されませんようくれぐれも……


最近は、「これを描いて~」というお願いをたくさん頂いております
本当に、感謝なことです

やはりまず、気に入って頂ける事が嬉しい

自分の生み出すものが、
少なくともその場その時においては、
決して目を当てられないようなものではない事が証明されているような気がして
これで、多少の嫌がらせには耐えていられる気もしてくる

もし可能なら、「でもこの点はこんな感じの方が良かった」みたいな意見も聞きたいけれど、
まだそういう評価をして頂ける身分ではないのかもしれない

ただ、今の絵は、殆ど自分の持ち味など出せていない気がする
やはり人物ならば、オリジナルのキャラクターを伸び伸びと描いていたい

というわけで、既存依頼を済ませたら、しばらくは自分のフィールドに帰ります
本業の勉強にも集中しなくてはなりませんしね
また、模倣意欲が必ず沸いてくるでしょうから、その時に


さて、本題の「謝罪すべき件」なのですが

私は、「西尾維新」先生を大変誤解していたようです
先生およびファンの方々、本当に申し訳御座いません

私の「食わず嫌い」の癖が、自身の中で、ここまで思い込みを生み出すとは思いも寄りませんでした

私は、西尾先生の事を、「売れっ子ラノベ作家」だとばかり思っていました
角川のいわゆる電撃系とかとはちょっと毛色が違いながらも、漫画原作に毛が生えた程度の小説を書く人物だと思い込んでいました

全くの誤解でした

なんとなく誤解の傾向を自ら感じ、書店で「化物語」上下巻を購入
(複数巻に分かれていると一度に買う無鉄砲なのです)
どんなもんかと、読み始める

このようなスタイルも「ライトである」と感じる方々もいらっしゃるかもしれませんが(各々の理由はさておき)、
私にとっては、全く正統な「小説」であり、しかも非常によくできているものに感じました

多少大袈裟かもしれませんが、村上春樹先生の昨今の作品と遜色のないクオリティに感じました

SFやファンタジーの色が濃い分、
いささかアニメ的マンガ的な要素を感じやすいかもしれませんが、
なんとなく、そういう成分因子は、西尾先生の「サービス」に過ぎないのかなと思いました

つまり、マンガやアニメにハマる10代や、それらで育って間もない20代たちの為の

VOFANさんのイラストも、パッケージと各話トビラで使われている程度
いわゆる挿絵はナシ
これは意外でした
逆に、本格でマジメな小説であるという様子を醸し出しているような


とまぁ、やはり自身の内の思い込みは恐ろしいなと
そこから慢心が生まれ、成長が停滞すると同時に傲慢になり、取り残されるのかな、と

何より、西尾先生の書き方は素晴らしい
こっちは良い意味でマンガ的
短い空間、
つまりは短いページ数、
つまりは短い文章、
つまりは短い情報群により、
導入・展開・変化・収束を表現している

作家なら当たり前か
否、これがなかなかどうして、なかなか居ないものですよね


っと言うわけで、長編マンガの台本プロットをボチボチ書いていこうかと
なんか、とても参考になります
読んで良かった(まだ読み終わってないけどね)


るん♪