マンデーィ、るん♪ですよ


タイムマシン・パラドックスを解いてみました
え、なにそれ、おいしいの?って人のために、簡単な説明をば

タイムマシン・パラドックスというのは、
「タイムマシンが実在した場合、これこれこういう矛盾が起きるよね
 だから、タイムマシンは実在しないんだよ」
といった説明のことです
いろいろな種類のものがありますが、
今回私が思考実験したものは、以下のケース


「未来から来た、ほ乳瓶」

あなたは、大人になって気付きました
『そういえば、私が乳児の頃に使っていたほ乳瓶は、
 その当時の未来から来た私が、
 両親に渡してくれたものだったなぁ』

そしてあなたはタイムマシンに乗ると、
あなたが乳児だった時代へ行き、
持ってきた自分のほ乳瓶を、
若い自分の両親に手渡すのでした

乳児はすくすくと育つと、
大人になり、同じことを気付き、
タイムマシンマシンに乗って乳児の時代へ

これを延々と繰り返します
前の世代も、延々とこれを繰り返してきたのです

さて、このほ乳瓶は、いったいどこから来たのでしょうか


……といったやつなんですが
まぁ、別にほ乳瓶でなくても良いんですよ

このパラドックスの、どこがパラドックスやねんと言いますと、
「ほ乳瓶は、何処から来たの?」
という事なんです

普通のほ乳瓶は、何処かで原料から製造され、
販売されて、購買されて使用されます

しかし、このほ乳瓶は違います
常に、未来からもらったほ乳瓶であり、
過去にあげるほ乳瓶である
未来と過去を無限にループしているのです

エンドレスほ乳瓶

このほ乳瓶の構成元素のルーツを、宇宙の起源に求める事ができない
宇宙の流れから浮いてしまっているのです
そんな物質を認めることができるか?
いえ、できないのですわ


タイムトラベルには、大きく分けて二種類のものがあります
一つは「自由トラベル」であり、旅行先での自由行動が認められるものです
もう一つは「制約トラベル」であり、旅行先で何らかの制約を受けるものです

今回のパラドックスは、制約トラベルにおいて起きるもの、
つまり、制約トラベルの実現不可能を示したものです

制約トラベルは、例えば過去トラベルの場合ならば、
「過去に対して『未来から受けた干渉と同じ干渉』を施すならば、
 そのトラベルば実現する」
という性質ルールを持ちますが、
このパラドックスはルールを守っているにも関わらず実現不可能なわけです


ここで、私の思考実験
チェス盤を、ちゃぶ台ごとひっくり返させてもらうぜ!!!

そもそも、このパラドックスは、制限トラベルのルールを本当に守っているのか?
未来から受けた干渉を、ちゃんと過去に施しているのか?

言い換えれば、未来から受け取ったほ乳瓶と同一のものを、
過去に渡していると言えるのか?


実は、ルールを破っているんです
それは、ほ乳瓶を、例えば子猫に置き換えれば解ります

簡単のため、子猫を渡す過去を一年前に縮めてみましょう

未来から受け取った子猫を、過去の「受け取った時期の自分」に渡します
それを繰り返していくわけですが、
当然ながら子猫は年を取ります
一度のタイムトラベル毎に、年齢は一歳ずつ増えていき、
決して若返ることはありません

まあ、すぐに「子猫」ではなくなってしまいますよね
それどころか生き物ですから、いつかは寿命が来てしまいます
とても、無限ループなんでできません

これは、子猫でなくほ乳瓶であっても同じです
老朽化が進み、いつかは耐用限界を超えます
壊れてしまうわけですね

原子にも寿命があるということが、現代の物理学では知られています

つまり、どういうことか
パラドックスで行われているタイムトラベルでは、
正確には「同じ干渉」を繰り返していないのです
「同じほ乳瓶」を渡していない
物質的には同一であっても、年齢が違うのです

物質の年齢のことを、物理学では「固有時」と言います
固有時が同じほ乳瓶は、同一ほ乳瓶の同一固有時系列上には2つとしてありません
そのため、「未来から受け取ったほ乳瓶を過去に渡す」のは、誤った干渉だと言えます


この場合、常に新品の、同一手段で入手したほ乳瓶を過去へ渡すなら、
タイムトラベルは矛盾なく成立します

少なくとも、未来から受け取ったものを過去へ渡すことはできません
もしそれをしてしまうと、漸化式的に考えて、どうしても矛盾が起きます

ただし、今まで言及してきたタイムトラベルは、
あくまで「直線的時間世界」においての話なので、
それ以外の時間定義におけるタイムトラベルの場合、話は変わってくるでしょう
(言わないけど)


このパラドックスと似たケースとして、
「涼宮ハルヒの憂鬱」で取り上げられている、
「朝比奈みくるのホクロの件」があります

「みくるちゃんのホクロに関する情報の出所は?」と考えると無限ループするというやつです
キョン→みくる→大人みくる→キョン……
って感じですね

ちなみに、情報にも固有時があります
伝言ゲームの前の方が若く、後ろの方が年寄り、と考えます
情報は、生体であれ書物であれコンピュータであれ、
伝達を繰り返すほど、また時間が経つほど、劣化します
情報劣化とはつまり、エントロピー増大であり、誤謬化と無意味化といったところでしょうか

しかし、みくるパラドックスの場合は許容されるケースであると言えます
キョンは、大人みくるから情報を得つつも、それはキョン自身の観測による情報のため、
常に新しい情報としてみくるに伝達されています
その為、伝言ゲームの無限ループという形にはなっていないのです

じゃあ、みくるのホクロの件は、誰が情報をリークしたんだ!?
長門にでも聞いて下さい


るん♪でしたーっ
どうもサンデー、るん♪です☆


ブログ更新記録って最近流行りなの?
わかんなーい
わかんなーい
わかんねってば!!!

話すネタは有り余っているつもりなアタクシ
でもね、如何せん筆不精でしてね(いや、それじゃアカンのだが)

1日に300回更新とか、未到記録出せるんじゃね?
……とか思ってみたり
何らかの、意味のある記事を書いていけば良いんでしょう?
ネタには困りませんよ
但し、途中で寝ないか心配ね(そっちか)

暇な時に、やってみる!!!


るん♪なのだった
東京は秋の絶賛長雨中という
なんという、るん♪です


まぁ、先日ある“人気”ニコニコ生放送配信者が、
それなりの問題を起こすという“事件”がボソボソと起きました

何の話かと言うと

配信者、カメラを持って、ニコニコ生放送配信しながら市街地の児童保育施設に入る

運動会で地元ウェルカムな雰囲気だったらしく、配信者、保育士らしき人からマイクを借りる

配信者、マイクを通して、園庭の児童・保護者へ向け、自らがロリコンであることを発言する

配信者、マイクを返して帰途へ

配信者、施設を出たところの道端で、児童の父兄と思われる数人の男性に止められる

配信者が、父兄らしき男性から、撮影や放送について質問や叱責を受けているような様子が映る

放送終了

って感じなニコニコ生放送があったよ、という話です


まぁ、なんと言いますか
私としては、別にですね、
この配信者の行動が犯罪かどうかとか、どうでも良いです
単純に、地域住民に迷惑が掛かるのと、
キモイのとでやめとけとしか言いようがないです

この件でニコ生が問題視される云々も、どうでも良いです
極端な話、ニコニコが閉鎖しても構わんのですよ

常識云々を説きたいわけでもないです
まぁ、アマチュア無線が流行った時代にもマナーは在ったそうなので、
現代ネット社会のマナー欠如は憂慮されるべき点とは思いますが


「こまけぇこたぁいーんだよ」
とお考えの方も多い御時世
まぁ、そんなんだから“規制”が増える一方であることに、
どれだけの人がお気づきか
法治国家の下では、個人や集団の自由よりも、
公共の福祉が優先されるのですよ

まぁ、良いですよ
端的に言うなら、これはメディアを「発信する側」と「受け取る側」、
それぞれに潜む問題ですよ

問題があるんですよ、確実に

「発信者」側には、恥じらいの欠如
「受信者」側には、過剰なイエスマン姿勢
古臭い概念を引っ張り出すなら、そういうこと

恥じらいって大事です
私は、いわゆる“オタク文化”(と表記するのは嫌いですが)を尊重していますので、
大切にしたいと考えています
その根源というか、醍醐味というか、とにかく重要なのは、
恥じらいの精神なんだと思います

ちょっと公には言いにくい、でも仲間内には言いたい
そんな絶妙なバランスの、独特な“趣味”
そこに、特有な化学反応が生まれるからこそ、
オタク的生産物は、“おもしろい”と評価される

だから、あの配信は“おもしろい”ではない
ただの恥さらし、キモいだけ

さらには、受信者の倒錯した受け取り方
「www」のコメントが多すぎる

オタク的な生命体が生み出すものが、
何でも「www」なわけではない
オタクもどきかも知れないし、ただのキモい人かもしれない

日本人は古来より往々にしてイエスマンですが、
これはもはや感覚的マヒ状態
“支持している”という陶酔感
拍車を掛けるだけの、ただの歯車


発信者であれ受信者であれ、こういう人たちは、
普段から憂慮している“社会の悪”と自分自身の姿が同一であることを、
もっと自覚すべきだと思いますよ
垣根なんか無かったね、と

どちらにせよ、私が敵視している対象であることには変わりありません
全員斬る、それだけですよ


るん♪でした