ある日、明け方に夢をみました。
7~8人くらいでしょうか。
集まって(何かを囲んで?)、熱心に議論している様子。
しきりに伝えてくる言葉みたいのがあって、あわててメモをしました。
えっせね、って、聞こえたような。気のせい?
あとで調べてみると、ユダヤ教の一派でエッセネ派というのがあったらしい。
調べていくと、敬虔さ、禁欲的という特徴があるようで、実際のところはわかりませんが、なんかとても、自分の中に根付いているもののように感じました。
私の弱点というか悩みは夢や希望がもてないことでした。
子どもの頃から、未来は真っ白い霧のようなイメージで、
小学校卒業の先がまったく想像できなくて、
進学や就職や引っ越しなど、転機のときには誰かがその選択肢を与えてくれるような感じでした。
もちろん必要に応じて自ら選択することはあるのですが、
心の底から「ああしたい」「こうしたい」というのが、わからないのです。
特に最近。
一方で、「絶対に〇〇する」という意思こそが現実を動かす強さなのだ、ということは、この数年、実感として感じていたことでした。
必要にかられたことであっても、絶対に決めたことは実現したからです。
だから、「今後こうしたい」がないことは、一番の問題だなと感じていたのでした。
そんなときふと、
これってもしや禁欲では? と思いました。
厳密に言えば、禁止してる意識はまったくないのです。
”無欲”、なのです。
そうか、私は禁欲してる状態だったのか。
ということは、過去の時代に目指した姿になっている、といえるかもしれない。
だけどそれでは、行きたいところへは到達できないと今になるとわかる(当時の私へ)。
ゴールへの道のりは、当時の私が思っていたものとは違うということ。
当時の宗教の呪詛を解いていくと、延髄、鼻に体感がきて、鼻水がつらつらと出ていきました。
考えてみたら、
あの時代の思いで、私は生きてきたのか
それって相当、変わりモンだな
それなのによく頑張ってきたな
なんかそう思ったら少し気が楽になった
今回あらためて感じたことは、神という存在の大きさ。
何かうまくいかないとき、
「悔しい!」
のと同時に
「そういう運命なんだ」
「仕方ない」
「縁がなかったんだ」
みたいな気持ちがどこかにあったように思う。
いや、正直、後者の方が多いかも。
それって、自分の人生なんだけど、なんか他人事みたいな感じ。
それを「諦め」だと思っていたけれど、もうひとつあるように思う。
それは、ある意味ではなにかに委ねているような状態。
そう、神にゆだねている状態なのだと気がついた。
まさに、「神様の言うとおり」
子どもの頃、よくやりました。
これ、考えてみたら、責任を放棄しているともいえますね。
2000年前の私、その後の過去世の私も、神を信じてやまなかった。
それが長いこと続いてきたのは、必要とされていたということなのだろうと思う。
だけど、
自分が人生の主人公になるとは、
神からの脱却
かみさまのいうとおり的な思想から抜け出すこと。
そこから抜け出すには呪詛を解くこと。
そこには強い恐怖心があって、まだ私は完全に抜け切れていませんが、なるはやで解消したいと思います。
それでもふと、ある朝、
ベランダにやってきた二羽のハトをみながら(とてもめずらしい)、
もっと自分が思うようにやってみてもいいのかもしれない、と思った。
呪詛が解けてくると、
自分の思い、自分の心の声みたいなのが、変わってくる。
以前楽しかったことが、最近はそうでもなくなってきました。
一方で、これまでとは違うことに目が向くように。
なんとなく、興味があることが変わってきたように思います。
ある夢の中で、数字が四桁、みえました。これは?
急いでメモしました。
続きます。
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