「意味そのもの」が自己に対する世界を創造すると、「無意味な世界」が生まれるしかない。
そしてその無意味な世界を体験すると、今度は「意味に満ちた世界」を産み出すしかない。
「意味そのもの」の、シンプルだけど壮大な物語。
その計画の片鱗が、イシスとオシリスのエジプト神話は勿論、
現代でも、色んなアニメや映画、ゲームのストーリーに現れている。
エヴァンゲリオン、マトリックス、ゴッドイーター、ファイナルファンタジー(Ⅶやディシディア)等々。
でも、どれも「意味に満ちた世界」は描写できていない。
それは人間の脳では想像できないことだし、何とか想像しても、
きっと、何だかつまらない世界のように思えることだろう。
「その後の世界」は、被造物である私たちには想像できないことである。
(最近のすぴりちゅあるでは、自分が創造主であるという説が流行っているが、
意味に満ちた宇宙を創造した人を見たことがないのは何故だろう(笑)
脳自体が被造物であり、肉体が消滅しても残る我々の意識さえも被造物である(笑))
私たちの行うべきは、世界を創造することではない。
厳密な意味で、それができるはずもない。
私たちの行うべきは、只、「意味そのもの」の手元に帰ることである。
筆は手にとってもらって初めて、用を成すのである。