
昔、AVコーナーに『欲望という名のちんちん電車』というタイトルのアダルトを発見し、激しくレンタルしたい衝動に駆られたがヤメにした記憶がある。
本家の映画の方もAVの方とテーマはさほど変わらない。
なぜならそれは、どちらも「セックス」であるからだ。
それだけに、人間の深遠なる部分、闇の部分に光を当て、白日の下に曝け出した、大変複雑かつ重厚な物語である。
「闇」を「白日」に曝す。だからこの映画は「白黒」で撮ったのかもしれない。
あ、これは「本家」の方ね。何せAVの方は観ていないので内容についてはなんとも…。
同名の舞台公演がまず大成功を収めた。
原作者のテネシー・ウィリアムズは「映画にするなら、演出には舞台と同じくエリア・カザンを」と主張したらしい。これではカザンは断れない。
問題はキャストである。
映画としてヒットさせるには映画スターが必要だった。
舞台はピューリッツァー賞も獲得し、その脚本はそれこそ全世界に持ち込まれ、その国の俳優が演じるほどに演劇界では知らない人はいない。
というほど有名な作品だったが(だからこその映画化であるが)、だからと言って映画が売れるとは限らない。
となると舞台で演じていた俳優たちをそのまま映画で使うというのは一つの大きな賭けである。「映画スター」はその舞台には出ていなかった。
そこでヴィヴィアン・リーの登場である。
結果、『風と共に去りぬ』のスカーレット役で人気を博したイギリス女優にとって、この『欲望という名の電車』は後半生における代表作となった。
しかし、私はこの映画における彼女の演技をあまり好まない。
とにかく浮いているのだ。
その他の主要キャストがアメリカの俳優で、彼/彼女らは演技においては「リアリティ」のある表現を信条としている。これにリーは真っ向から対立する形となった。
特にマーロン・ブランドとの演技の質の違いたるや、それはもう歴然としている。
ブランドは存在感もあり、演じる役によって全く違う顔を見せるため、それらを以て「名優」だの「怪優」だのと言う人が多いのだが、私の「ここがブランドのブランドたる所以だ」と思う部分は、それらももちろんあるにはあるのだが、なんと言ってもその繊細さにある。
例えば、この映画で言えばブランドとリーとブランドの妻役のキム・ハンターとの3人で食卓を囲むシーン。
夫ブランドの、姉リーに対する態度に腹を立てた妻ハンターが、夫ブランドに「後片付けは自分でしなさいよね!」みたいなことを言う。
侮蔑されたと感じたブランドは皿を叩き割って「片付けたぜ」と嘯く。ここまでは怒り心頭だ。
続いて「お前のも片付けてやろうか?」と妻の皿に手を伸ばしたところで妻の拒否に遭う。
この時のブランドの表情なのだ。これを観てもらいたい。
どのような気持ちでその顔をしたのかについての私なりの見解はある。が、ここでその記述は避けたい。
それは私個人の主観であり、もしこれからご覧になって頂ける方があるのならば、余計な先入観は邪魔なだけだからだ。
ただこれだけは言っておきたい。
ブランドはあの状況下(「怒り」の感情MAX)においても、その1つの感情だけに囚われずに、実にニュートラルな、フラットな状態で演技をしている。
その時その時に自分のうちから湧き起こる感情にストップを懸けていない。
どう怒ろうか?何を投げつけようか?演技をそういうレベルで捉えていないのだ。
これはなかなか難しい。というか普通はできない。
だってブランドは何も考えずにそこに臨んでいる訳ではない。
「選択の天才」である彼は、様々な可能性の中から一番良い演技をチョイスしているはずだ。
そして彼のように完璧に準備すればするほど、その準備した通りに物事を進めたくなる、それを披露したくなるのは、これは人間ならば当たり前のことだ。
完璧に準備しておいて、それに固執しない。
その役を研究し尽くしてなおかつ、その場で感じたことを第一に表現しているのである。
そしてそれがそのまま、“役の人物自身”が体験していることなのである。
これと全く正反対なのがヴィヴィアン・リーだ。
彼女は“彼女自身”が事前に用意した「プラン」通りに演技をしている。
その「プラン」の中にはブランドの演技も含まれていて、しかしブランドはその彼女の「プラン」通りには全く動いてくれない。
この食い違いが、登場人物であるブランチとスタンレーの食い違いとしてそのまま表現され、世間の評価ではリー自体が名演ということになっているけれども、これは完全にブランドのお蔭である。
アメリカ俳優の中にたった1人イギリス俳優をポンと投げ入れて、そのイギリス人を神経を病んだアメリカ人として起用するなんざ、恐ろしいまでに冷酷非情な企画だが、結果これが効を奏したことになる。
だがまあその自由奔放なブランドをしっかりと受け止めているという点は流石に大スターで、リーにはそういった器の大きさを感じてはいる。
アカデミー賞では主要キャストが全てノミネートされ、主演男優賞のブランドだけが受賞を逃すという奇妙キテレツな現象が起きた。アカデミーなんてそんなものだ。
それでも、私が観た数多くの映画における演技の中で、最高なものはこの『欲望という名の電車』のマーロン・ブランドだという意見は変わらない。おそらく生涯変わらない。
これこそが「演技」であると思う。
であるからして、これ以外の演技はまだ「演技」とは呼べないのだと思う。
1951年。アメリカ映画。