
吾輩には6才3ヶ月の娘がいて、今日はその娘の通う幼稚園で「こどもかい」と名付けられたお遊戯会があった。
企画から立案、製作、構成、スケジュール等、全てを子供たちが取り仕切る。
というのは土台無理な話であるが、それでも事前に稽古をし、衣裳や小道具などもせっせと作り、我々大人を喜ばせようと子供たちみんなが協力して歌、劇、演奏を披露する。彼/彼女ら、こどもが主役の会。「こどもかい」。
吾輩は去年も観たが、1年を経た今年は流石に皆1つお兄さん/お姉さんになっていて、先程も少し触れた衣裳や小道具などは実に凝ったものになっている。
しかし逆に、羞恥や照れ、あるいは緊張感を「緊張感」とはっきり認識できるだけの自我が芽生えてきたためか、実際の舞台上での「振る舞い」となると去年に比べて控え目で、一回り小さくなってしまったようにも感じた。
だがそれも、1つ年齢を重ねたゆえのことなのだろう。これも成長か。
無心に、真剣に、一生懸命に1つのことに取り組むこと。またはその姿勢。
それを他人に見つかってしまうのが「恥ずかしい」こと、「照れ臭い」ことと感ずる自分。
吾輩自身がそういう類の人間であったから、その気持ちは痛い程よく分かる。
今はそれでいい。
いずれ、他人の目に自分の生き方を左右されることの虚しさを知る時が来る。
吾輩としてはその時に、そのことにきちんと気づけてくれれば言うことはない。
それに気づける感度だけは鈍らせずにいてほしい。
ただそれもこれも吾輩がどう生きるかに懸かってくるのだ。という自覚はある。
そしてその吾輩の姿を見て、あとは娘が自分で決めることなのだ。
「育児は“育自”」というのは真理かもしれない。