奥田英朗の名を一躍世に知らしめた犯罪小説の傑作である。
この小説が読者、他の作家、評論家のどの方面からもこれほどまでに支持された理由は何か?
それは「人間というのは他人の不幸が大好き」という絶対的真理による。
ニュースもワイドショーも週刊誌もそのほぼ全てが「他人の不幸」事に割かれている。
その方が視聴率を獲れるし部数を稼げる。
ノンフィクションの世界でもあからさまにそうなのだから、フィクションとなると遠慮などいらない。
小説に登場する、それこそ「最悪」の事態を経験する人物たちは実際この世に実在している人間ではない。
それってどういうこと?
それって、大手を振って他人の不幸を喜べる。ということ。
しかも一つ一つの不幸には必ずその「最悪」をもたらした悪役が存在するので、そいつを責めながら読み進めて行けば自らの良心が痛むこともない。
そもそもこれは「ウソ」なのだし。小説の中だけの話なのだし。
たからなのか。
この小説は群像劇で、身に起こっている「最悪」について語られてるのは生い立ちも、性別も、職業もバラバラな3人なのであるが、「やがてはこの3人の人生がどこかで交錯するのであろうなあ」と考えながら読んでいる500ページ辺りまでの「他人の不幸」が実に面白い。
そして、実際にこの3人が出会ってからの残り150ページぐらいが…そりゃあ面白いは面白い。それは間違いない。
のではあるが、3人が出会ってしまって体験していることが1つになると、今度はその1つの事柄について3人それぞれの目線からの記述が為される。
ということになって、どうしてもそれまでの物語にあったスピード感・グルーヴ感が損なわれてしまう。
多角度から1つの事件を追う。という芥川龍之介の『藪の中』のような箇所が何ヶ所かあるが、このような場面を「映画」で扱うのならばそれも効果的なのかもしれない。
しかしこの『最悪』という「小説」においては折角のダイナミズムが少し薄れてしまった感がある。
が、それも微々たるものだし、私だけがこんなことを言っているのかもしれないし、だからこんなことは聞かなかったことにしていただいて、とにかく「面白かった」ということをお伝えしたい。
1日で読み切れた訳ではなく、数日懸かって読んだのであるが、「明日も仕事があるから今日はここまで」と区切りをつけるのが残念でしょうがなく、次の日続きを読むために本を開くのが楽しみでならなかった。
荒唐無稽な話にもかかわらずリアリティがある。
それは恐らく物語の辻褄合わせに囚われず、終始「人間」というものを描いているからのように思われる。
「この人物がこの状況下でこの選択をしてしまうのは仕方ない。ていうかこうするだろうな」
の積み重ねが「最悪」になっている。
さらにはエピローグに一発逆転やお涙頂戴を用意していないのも好ましい。
「リアリティ」が許す範囲での「ハッピーエンド」になっている。
そうなのだ。どんなにつらくとも我々庶民は生きてゆかねばならぬ。
「最悪」の先に待っているものは、少なくとも「最悪」ではないはずだ。
久し振りに面白い小説を堪能した。