昨日おとといのこのブログで「介護」の勉強をしていると書いた。しかも今やっているのは座学、学問としての「介護」だと書いた。
そしてこれは即ち「介護道」とも呼べるものである。
今はまだこの考えを輸入したてでそこまで整えられてはいないが、やがて日本人は間違いなくこれを一つの「道」として確立する。片鱗は既に見える。
「ベースボール」は単なる「ボールゲーム」だった。それを我が先達は「野球道」にまで昇華(?)した。
柔道も剣道も書道も華道も茶道もみんなそうである。
「修行」にする。自らを磨く手段とする。
これは本来、団体競技においては余り通用しない。なぜなら「自分」を鍛え上げることに余りにも専心してしまうため、「all for one,one for all」の発想へとなかなか辿り着けないからなのではないか?と私は推測する。
「サッカー道」「バレー道」「ラグビー道」など聞いたことがない。そういう意味では「野球」というのはピッチャーとバッターとの関係においては「個人競技」となり得るので、「道」という考え方が成り立つ。
真っ直ぐしか頭にない清原にカーブを投げたら「逃げた」ということになる。それがいくらチームのための最良の選択だとしてもだ。
「道」から外れているのである。
この「道」とはどこから来ているのだろう?
それはやはり「道理」の「道」だと思われる。
それでは「道理」とは何か?
【道理】
①物事のそうあるべきすじみち。ことわり。
②人の行うべき正しい道。道義。(広辞苑)
「法律」や「規範」または「ルール」を超えたところに「道(道理)」は存在する。
野球とは9イニング27個のアウト内にどちらのチームがより多くの得点を積み重ねたかを競う「ゲーム」である。
確実にアウトが取れるのなら、それによって相手の得点を阻めるのなら、何も好き好んで清原が首を長くして待っている渾身のストレートを、投手はわざわざ投げる必要がない。
それでも、野茂は投げるのである。それが「道」なのだ。
「そうあるべきすじみち」なのである!
「介護道」の話はどうしたのかって?
そんなこと知るか!
いま私は野球の話で忙しいのだ。