はてさて、ブラジル旅の記録も終盤に差し掛かってきました。
旅の記録が少し長引いてシリーズ化してくると、書き上げてしまうと夢から醒めたような、なんとも寂しい気持ちになります。私の心は、未だブラジルにあるよう。
私たちが帰国した後の11月初めに、今度は熊本県が公式でブラジルを訪問し、ブラジル熊本県人会創立60周年と移民110周年をお祝いしたそうです。熊本県副知事やくまモンも参加したみたいですよ。
全国的にはあんまり話題になっていませんけれども、2年半前の熊本地震の際に真っ先に支援してくれたのがブラジルの日系社会のかたがたで、1000万円を超える多額の義援金を送ってくださいました。熊本県としては、ブラジルに訪問しないわけはありませんよね。
旅の最後を締めくくる今回は、プロミッソンにある上塚 周平の墓と上塚公園、日系最古の教会、上塚第二植民地であるリンスを取り上げます。
プロミッソン共同墓地入口。墓地全体を見渡すと、お墓に厳重に鍵がかけられていたり鍵が壊されていたり墓を掘り起こされた跡があったりして、現在でも墓泥棒が出没するそうでなかなか物騒です
こちらが、プロミッソン共同墓地にある上塚 周平の墓。以前の記事でも書いた気がしますが、上塚はブラジルで亡くなったため遺骨は熊本ではなくブラジルにあります。以前リンスと書きましたが、亡くなったのがリンスで遺骨はここプロミッソンにあるようです。
周平の移民事業が軌道に乗り出した頃、日本では1920年の戦後恐慌が起き、上塚の実家も打撃を受けて負債まみれになっていました。その時に立ちあがり、周平を頼りに単身ブラジルに渡ったのがこの上塚 道彦です。周平の甥にあたります。
道彦さんは移民の人たちとすぐに打ち解け、「小上塚」(周平さんは「大上塚」と呼ばれた)と呼ばれ周平さんの後継者の期待もされるほどでしたが、チフスに罹り、ブラジルに来て1年半で亡くなってしまいました。彼の死にショックを受け、周平さんはアルコール依存症に。周平さん自身の寿命も縮んでしまいます。
道彦さんのお墓は、同じ敷地内に周平さんのお墓と別にあったそうなのですが、2017年から周平さんと同じお墓になったそう。まぁ、去年じゃないの。道理で10年前の記憶にないわけだ。
なので、この彫刻は道彦さんの棺の蓋をそのまま持ってきて貼りつけたもの。さすがブラジルで生きた人たち、やることが豪快です(笑)
周平さんのお墓と対面して建つこのお墓は、「上塚の片腕」と言われた間崎 三三一(まざき・ささいち、1892~1963)のもの。
周平さんは移民事業の資金繰りのためにたびたび帰国しており、間崎さんはその間留守を任され上塚植民地の経営を支えました。また、間崎さんは単独でも様々な活動をしており、周平さんと出会う前はドウラード市(サンパウロ州)のサンタ・コンスタンサ耕地というところで第5回移民の受け入れを行なったり、渡航禁止となった鹿児島・沖縄両県人(理由は不明・・・「日本政府ノ方針ニヨリ」としか書いてありませんでした)の移民再開のために尽力したりしています。そのためか、周平さんと一枚岩だったわけではなかったようで、周平さんの死後に土地を勝手に売却したり、開拓の記念塔を移設しようとしたりして他の上塚後継者と決裂したりしています。それは現在まで続いており、同じプロミッソンに日本人連盟が2つある(笑)
ついでに言うと、熊本にある上塚 周平を顕彰する会も解釈の違いから2つに分裂していて、ちょっと分裂しすぎじゃないかと思いましたw
これが、間崎さんによって移設させられそうになった開拓十周年記念塔。現在も変わらず上塚公園にあります。
というわけで、上塚公園。
上塚道路の通り沿いにある公園で、移民十周年、五十周年、百周年といった節目の年に記念となる物をそれぞれ造っています。
移民五十周年を記念した、上塚周平頌徳(しょうとく)の碑。
移民百周年の記念に建てた鳥居。公園の入口にあり、奥の中央にある黒い碑が頌徳の碑、写真には写っていませんが頌徳の碑の更に奥に開拓十周年記念塔があります。
ちらりと見える左端のオレンジの建物は、上塚 周平を祀る観音堂。
移民百周年を記念して造られた、上塚 周平の胸像。百周年の時はやはり大々的にいろいろな物が造られたようで、
このように、周平像を斜めから見れば、日本とブラジルのオブジェが像を囲むように出で現れる。本当に、懸け橋のようなかたですね。
公園には、周平さんが当時の心境を詠んだ直筆の句碑(下の写真中央)もあり、
「夕ざれば 樹(こ)かげに泣いて 珈琲もぎ」
「夜逃げせし 移民思ふや 枯野星(かれのほし)」
と、あります。
観音堂ととてもよく似た別の建物が敷地内にあったので、入れるのかと思ったら公園を管理しているかたのご自宅でした
次は、日本移民が造った最古の教会、クリスト・レイ教会です。
創設は1932年。福岡県から来たカトリック信者の手によって建設されたそうです。福岡県の今村天主堂をモデルにしたと考えられており、福岡県庁もお金を出したと伝えられているとのこと。
こんなに美しい教会ですが、現在は運営しておらず、廃墟化が進んでいるよう。そういえば、10年前は正面の3つの窓がある2階から室内を見下ろすことができましたが、今回は上がることができませんでした。
時の経過とは虚しい一面もあるものですね・・・
かなり斜めからですが、こちらが恐らく司教館跡。司教館跡はかなり崩壊が進んでいるようで、中に入ることはできませんでした。
時の経過といえば、一番初めの記事に書いた印象深かった言葉の回収。サンパウロでは「親戚と思ってブラジルに来て欲しい」と言ってもらえたけれども、当然ではありますが地域や世代によって認識に違いが出ているようです。
目安でいえば、日系2世が周平さんの生きている姿を見た最後の世代で、かなり高齢にはなりますが存命しているかたもいます。現在は4世、5世が活躍している世代。
私がプロミッソンでお世話になったのは日系3世のかたでした。日本に残っている親戚がいるそうで、日本とブラジルを何度も行き来されているとのこと。そのかたは自身が日本人の子孫であることに誇りを持っており、家族には日本語でないと会話をしないという徹底ぶりです。しかし、日本を想うその姿勢が日本の人からも日系の人からも「その考え方は、旧(ふる)いよ」と言われ、とても残念な思いをされているそう。
当然だとは思いますけれども、4世、5世にもなるとかなり土着しており、ポルトガル語しか話せない人も増えているそうです。先祖が日本人であることにもこだわらなくなっています。
私たち日本に残っている側も、家長制度とか、祖国への忠義とか、正直なところ殆ど廃れていたりしますよね。私たちの側も彼らの想い描く日本人の姿とは変わってしまっているし、これからますます離れてゆくでしょう。
両者の距離が離れてゆくこと、それはごくごく自然なあるべき流れだと思いますが、それより、運命を感じるのは、このような時代の流れにあって、10年前に彼らと出逢い、10年の間に地元を見つめ直し、10年ぶりに彼らと再び逢うことができたこと。10年という月日のどこかで諦めざるを得ない時機が来ると思っていましたが、自分でも不思議にするっと彼らとの約束を優先させていました(笑) これからもそういうユルい感じで彼らに気持ちを奪われつつ、生涯を通じて繋がってゆくのだろうな、と漠然と感じています。
旅の最後、リンスは車窓見学でした。リンスはプロミッソンよりも大きな市で、ブラジルの地方都市で初めて学校を設置した教育都市でもあります。
学校?だったような。