過去との訣別 | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

そろそろ岐阜巡りを本格的に・・・といきたいところですが、なかなか問屋が卸さなかったりします。
熊本地震の余震は、私が熊本にいる間は起きていません(起こさせません爆)が、私の活動範囲である県中部宇城市(うきし)などは現在も強い余震が続いているようです。いい加減地震の話題から離れたい思いもありますが、揺れていることは揺れているので、定期的に私も帰省しています。岐阜を巡れない理由その2な(その1は車を持っていないこと)

本ブログもまだまだ完全通常といかず、わたくしごとの話題が多くなりますが気にせずそっとブラウザを閉じていただければと思います(笑)



震災に関連してか関連せずか、祖父が過日息を引き取りました。

祖父は江戸の初期やら中期から系譜のある家の次男坊で、戦後20数年後に跡を継ぎ、以来病で倒れるまでずっと家を守ってきました。うなぎの寝床式の家であり、釜のお風呂にぼっとん便所、かまどがあって、私も小学校低学年頃までは1年につき数回、その家に連れられて来ましたが、不便で不気味でたまりませんでした。うすぼらけた遺影がずらりと並び、常に見下ろされている感じがしましたし、階段は軋んで手すりは揺れる。もう来たくないとあの頃、何度思ったかしれません。数年前の台風で壁の一部が吹き飛び、このたびの地震で全壊致しました。当初の県の査定では「半壊に至らず」でしたが、親族が不服申し立てを行い、「全壊」に再指定、当主もこの世にもういないということで取り壊しと相成りました。

 

imageこれで「半壊に至らず」はないだろう・・・外見えてんぞ。

古い家だけに柱や梁はしっかりしており、戦後増築された2階は落ちてきていませんでしたが、階段は崩れて上には上がれず、平屋部分の天井は落ちていました。
奥には庭があるのですが、この有り様なので先には進めず、反対側から確認しようにも線路が通っているので反対側に回ることもできませんでした。

この家は以前から後継者問題で揉めており、祖父が倒れて以降は牽制し合いで誰も手をつけられずにおりまして、数年前から空き家同然ではありました。地震と当主である祖父の死が重なってようやく、というのはなんですが、事は動き出したということになります。

ここまでの文で、他人事で曖昧な言い方であるのは、これらの情報は全て私が熊本を離れた後に聞かされたからです。順当にいけば後継は私の親になりますが、一人娘なので跡は継げず、しかも婿養子を取ったのではなく嫁入りしているのでそこに複雑さがあるようです。ええと
・・・今何時代だっけ?
もし、跡を継げたとしても孫である私も女なのでその後を継げず
・・・と、江戸時代をそのまま引っ張ってきたような感覚が意外なほど近いところにありました先生。


なので、見納めに行ったのです。15年ぶりくらいに行きましたが、その地に行くことはもうないでしょう。


聞けば、私は祖父の死を聞いて慌てて帰って来ただけでしたが、祖父の遺体の扱い一つに関しても親族でかなり揉めたそうです。
母は通夜も葬儀もあげることを拒否しました。葬儀をあげないことには私も驚きましたが、母いわく「喪主になった挙句女性では、弔客の接待に追われてしまう。気づいたら父の身体が骨になっていたなんてことは嫌」。それに、葬儀をあげると“一族の”“セレモニー”になるので親族の墓に遺骨は納められる。つまり、母の手の届かないところに遺骨は行ってしまう訳で、母はそれを嫌がったのです。後継者だの女だからだの言っている家なので無論そのような異端は許されず、母は祖父の遺骨だけを抱えて縁を切るという運びに。すると今度は、納骨する場所に困る訳で、母は父に「お義父さんとお義母さんの眠る場所に私の父も入れてください」と頼んだそうです。父の父母、つまりこちらも私の祖父母になりますが、こちらは駆け落ち婚であり父が生まれる前から既に親族の縁はありません。父は二つ返事で「構わんさ。」と答えたそうです。

私自身は生まれた時から「あなたに親族はいない」と言われて育ってきたので、今更縁が切れたところでどうも思わないというか、むしろそんな血縁がいたことに驚きです。まぁ、いないと言われていた割にたまにこの家で知らない子と居合わせることがあったので、薄々我が家が唯一無二の血ではないことに気づいてはいましたが(あれは恐らくはとこだったのでしょう)。


子どもの頃は何の良さも見出せなかったこの家も、大人になり、歴史に興味を抱いて調べるようになった今ではそれなりに宝庫に見えます。価値あるものもこの瓦礫の中にあるにはあるだろうとのことでした。
でも、この状態ではもう発掘もできないし、母がもう何も回収せずに遺品も思い出の品も建物と一緒に壊してしまうと決めているので、別にやることはありません。歴史的に何の関係のない他人の姓を行きがかり上継いでいる私や長らく自身のルーツが不明だった父から見るともったいない気もしますけど、隣の芝は青いというものでしょう。母は物心ついた頃から、祖父が死んだ後の財産やらの話を親族から聞かされてきたといいます。葬儀を拒否して祖父との別れを独占したのは、きっと遅い子ども返りやら反抗期だったんでしょうな。この家のように消えてしまったがいい歴史もあるということです。歴史というものは自分たちに繋がっている、けれど直近ではないという、適度な距離感があるから楽しいのですな。

 

image祖父がよく使っていたであろう麻雀。近く家とともになくなります。

個人的には、貴重な現場に立ち会わせてもらったかな、と思っています。家系がなくなる(我が家の視点で見ればそうです)のを目の当たりにするなんてそうないし、明治維新から150年が経とうとしているとは到底思えない田舎の価値観というものにも僅かながら触れることができた。

 

何より驚くは、これらがフィクションではないことですな。被災しても、親族とすれ違っても、熊本にいようとする母は健気だと思いますが、熊本の魅力は人よりも土地の豊かさだと思うので関係はありませんかね。私にしても、もともと自分の中にはなかったものがフッと出てきてまた消えただけなので、熊本を好きな気持ちに変わりはありませんね。

 

これからもでうくは肥後人を追っていきます。