時間的にも金銭的にも余裕が出てきたので、髪を切りに行ったその足で岐阜城に行きました
岐阜城には、JR岐阜駅長良口を出た先にある路線バス乗り場の「12番」もしくは「13番」から乗り、「岐阜公園歴史博物館前」で降ります(バス代は210円)。
「国史跡 岐阜城『跡』」とパンフレットにも書かれているだけあり、遺構状態のものがまだまだ多く、織田 信長の居館跡など発掘調査が現在進行形で行なわれています。これから成長する場所と見た。
戦国時代にはまだまだ疎く、今後も複数回にわたって足を運ぶであろう場所なので、解説をすっ飛ばして写真と感想を貼ってゆく。
まず、岐阜城の建つ金華山(きんかざん、岐阜城は山城です)麓にある岐阜公園に入ると、何故か板垣 退助さんがお出迎え。
\やあ/
めちゃめちゃざっくり説明しますと、「板垣死すとも自由は死せず」の名言を放ったのがこの岐阜公園の敷地にあたるのだそうで、板垣退助岐阜遭難事件としてwikipediaにも詳細が載っているくらいです(私は知らなかったけどね・・・)。同じ写真がウィキにもありますが、上の写真は自分でちゃんと撮ってきたもの。紫陽花キレイ。
「板垣死すとも」って言った場所って、え、じゃあここではつまり死んでないってことでしょ?とドンキで慌てて買った日焼け止めクリームを塗りながら思っていました。大丈夫、板垣像の前にいたのあたし一人だったもんで誰も見ていないから。板垣さまが見てるけど。
板垣が襲われた地であることには違いないけど、名所としてはなんか腑に落ちないなと思いました(爆) ただちょっと言ってみた地になってる。
説明板も、何とも言いがたかったのか名言を放った後の板垣の結末について何も触れておりませんでした・・・
岐阜公園の敷地は山内 一豊と千代(見性院)の婚礼の地でもあるそうで。ゆかり多いですね。
千代さんは郡上市(ぐじょうし)出身とのことで、一豊に見初められて岐阜城下町に移ってきたと説明板にはありました。こっちはなんか腑に落ちる(爆
板垣の「言ってみた」がいけるんだったら、私もいつか大業を果たせば「でうくが板垣 退助を想いながら日焼け止めを塗った地」としてここに日焼け止めを塗るポーズの像を建ててもらえたりするんだろうかとかいうくだらない妄想を働かせつつ、金華山(岐阜城)へ。
金華山は40~60分かけて自分の足で登る方法と、ロープウェイを使って4分程度でスイスイ行く方法があります(往復1080円、片道620円。岐阜城天守閣には、ロープウェイを降りた後に15分程度険しい山道を歩く必要があります)。
職場のおじさまから「金華山は自力で登るもんや。ロープウェイ使うなんて外道だで」と助言をいただいたので、登山を試みようと登山道の案内板を見るも、時間との兼ね合いやちょっと怯んだことからロープウェイを使うことに。
岐阜城は四面を断崖絶壁に囲まれており、後ろに下がって距離を取ることができないので、城を目の前にして写真を撮ることはできませんでした。石垣しか画面に入らない。
少し下山して撮った岐阜城。こう見ると城と看板の距離を近く感じますけど、両者の間には崖を隔てている。
あんまり大きな城ではありませんが、中の展示は信長関連で忍者の暗器とか当時の地球儀・望遠鏡とかが充実していて面白い。戦国好きを連れて行って解説を仰ぎたい。行くの大変だけど。
岐阜城盛り上げ隊がいるとか聞いたけど、こんな断崖に武将がいると滑落しそうな気がします。
しかし天守から見る景色は絶景。
真ん中を流れる川は長良川です。本当に蛇行しているんだなぁ。
東側。関・各務原方面。見事な山並み。
明日もあることなので、早々に城を降りてバス停を探していると、道中で滝のある池を発見。
関ヶ原の合戦で当時の岐阜城主・織田 秀信(信長の孫)が石田 光成方について敗戦、落城した際、奥女中たちが投身自殺したいわくつきの池なのだとか。
池からそのまま上を仰いでみると、岐阜城ある金華山がそびえ立っている。
同じく金華山を正面に仰ぐこととなる位置に、岐阜護國神社があった。
岐阜護國神社は全国の護国神社系列で、私たち幕末好きに身近なのは京都霊山護国神社ですね。
護国神社は概ね各都府県に一社ずつあるのが通常ですが、岐阜県には岐阜・濃飛(大垣市)・飛騨(高山市)の三社あります。三社ある理由については、岐阜県はもともと多数の藩がくっついてできた県である上に、明治以後は複数の陸軍連隊が管轄を置いたために一つの県としての意識が身につかず、一ヶ所に調整できなかったからなのだそうです。なるほど。職場の人も、よく「岐阜と高山は別やから」と言ってます。
拝殿。
偶然というか何というか、私はここで地元である熊本県護国神社の具体的な被災状況を知りました。護国神社間で相互連絡をしていたようです。
熊本県護国神社は、よしくにさんが宮部さんたち肥後の志士を奉祀したのを起源とする神社。
最近は私の方も嫌気が差してしまって、熊本の情報をあまり入れないようにしていたもんで、また少しブルーな気持ちになりました
岐阜護國神社では社務所で熊本県護国神社の復興義捐(ぎえん)金の受付をしていましたが、私が来た時には時間帯もあって社務所は既に閉まっておりました。
千代さんは郡上市(ぐじょうし)出身とのことで、一豊に見初められて岐阜城下町に移ってきたと説明板にはありました。こっちはなんか腑に落ちる(爆
板垣の「言ってみた」がいけるんだったら、私もいつか大業を果たせば「でうくが板垣 退助を想いながら日焼け止めを塗った地」としてここに日焼け止めを塗るポーズの像を建ててもらえたりするんだろうかとかいうくだらない妄想を働かせつつ、金華山(岐阜城)へ。
金華山は40~60分かけて自分の足で登る方法と、ロープウェイを使って4分程度でスイスイ行く方法があります(往復1080円、片道620円。岐阜城天守閣には、ロープウェイを降りた後に15分程度険しい山道を歩く必要があります)。
職場のおじさまから「金華山は自力で登るもんや。ロープウェイ使うなんて外道だで」と助言をいただいたので、登山を試みようと登山道の案内板を見るも、時間との兼ね合いやちょっと怯んだことからロープウェイを使うことに。
岐阜城は四面を断崖絶壁に囲まれており、後ろに下がって距離を取ることができないので、城を目の前にして写真を撮ることはできませんでした。石垣しか画面に入らない。
少し下山して撮った岐阜城。こう見ると城と看板の距離を近く感じますけど、両者の間には崖を隔てている。
あんまり大きな城ではありませんが、中の展示は信長関連で忍者の暗器とか当時の地球儀・望遠鏡とかが充実していて面白い。戦国好きを連れて行って解説を仰ぎたい。行くの大変だけど。
岐阜城盛り上げ隊がいるとか聞いたけど、こんな断崖に武将がいると滑落しそうな気がします。
しかし天守から見る景色は絶景。
真ん中を流れる川は長良川です。本当に蛇行しているんだなぁ。
東側。関・各務原方面。見事な山並み。
明日もあることなので、早々に城を降りてバス停を探していると、道中で滝のある池を発見。
関ヶ原の合戦で当時の岐阜城主・織田 秀信(信長の孫)が石田 光成方について敗戦、落城した際、奥女中たちが投身自殺したいわくつきの池なのだとか。
池からそのまま上を仰いでみると、岐阜城ある金華山がそびえ立っている。
岐阜護國神社は全国の護国神社系列で、私たち幕末好きに身近なのは京都霊山護国神社ですね。
護国神社は概ね各都府県に一社ずつあるのが通常ですが、岐阜県には岐阜・濃飛(大垣市)・飛騨(高山市)の三社あります。三社ある理由については、岐阜県はもともと多数の藩がくっついてできた県である上に、明治以後は複数の陸軍連隊が管轄を置いたために一つの県としての意識が身につかず、一ヶ所に調整できなかったからなのだそうです。なるほど。職場の人も、よく「岐阜と高山は別やから」と言ってます。
拝殿。
偶然というか何というか、私はここで地元である熊本県護国神社の具体的な被災状況を知りました。護国神社間で相互連絡をしていたようです。
熊本県護国神社は、よしくにさんが宮部さんたち肥後の志士を奉祀したのを起源とする神社。
最近は私の方も嫌気が差してしまって、熊本の情報をあまり入れないようにしていたもんで、また少しブルーな気持ちになりました

岐阜護國神社では社務所で熊本県護国神社の復興義捐(ぎえん)金の受付をしていましたが、私が来た時には時間帯もあって社務所は既に閉まっておりました。
まあ、私も近く熊本に帰るけどね。入れるもんなら護国神社の様子も少し確かめたいとは思いますね。
最後に、長良川遊覧船を見送って岐阜県内のおうちに帰る。
川原町界隈と長良川鵜飼は、友人が来たときのためにとっておくよ!