ナチスによる「ホロコースト」に関する研究は無数にあり、

どの研究においても、それが起きた原因として、

 

ヒトラーの徹底的な「反ユダヤ主義」が前提となっています。

 

しかし、ヒトラーは、実際には、

反ユダヤ主義者ではなかったと思われる根拠があります。

 

補足資料として、掲載しておきます。

 

 

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1933年、ヒトラーが政権を執るとすぐに反ユダヤ政策が実行される

 

  「ヒトラーの反ユダヤ主義政策年表」より

 

(記事より)

「ヒトラーが政権を執った33年以降、ドイツ国内のユダヤ人公務員、

科学者、開業医は追放され、ユダヤ系または共産主義的文学作品や書物の

焼却破棄(焚書)が全国的な規模で組織された。

35年9月15日 「ニュルンベルク法」の成立、ドイツ人との結婚・性交渉の禁止。


ユダヤ人の選挙権の剥奪、ユダヤ人公証人、医者、大学教授、

教員などの職業禁止。



38年11月9日 「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」事件発生。

ナチ政権による全国的組織的なユダヤ人迫害が起きる。


96名のユダヤ人が殺され、ユダヤ人の商店、デパートなどの略奪、破壊。

2万6000人のユダヤ人が逮捕され、強制収容所へ送られる。」

(抜粋 終わり)

 

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ヒトラーが政権を執って以降のこのような反ユダヤ政策からすると、

徹底的な反ユダヤ主義者」に見えたヒトラーでしたが、

 

しかし、実際には、ヒトラーは、

反ユダヤ主義者ではなかったと見られる根拠があります。

 

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Wikipedia 「ニュルンベルク法」より 

 

1935年、「ニュルンベルク法」(人種法)が制定され、

非アーリア人(ユダヤ人)は公民権をはく奪されました。

 

しかし、ユダヤ人であっても、

アーリア民族認定を受けていた例があったといいます。

 

 

(記事より)
『書類を偽造すればたとえユダヤ人であろうともアーリア民族認定を

受けることが可能だった。

 

ヒトラーの専属料理人もまた血統上はユダヤ人だったが、

ヒトラーが彼女の料理の味を愛していたが故に、名誉アーリア人とされた。

 

ドイツ空軍の最高位にいたエアハルト・ミルヒ元帥も当時ユダヤ系だと

されていたが、同じドイツ空軍の上司でヒトラーに次ぐ実力者だった

ヘルマン・ゲーリング国家元帥が出生の関係書類を改竄し、アーリア人とした。

 

ドイツ軍将兵には多くの出生を隠したユダヤ系がいたのではないか?

という疑問は、歴史研究の対象となっているが、

 

実際にユダヤ系だったとしてもその出生記録は改竄されているはずで、

証拠になる記録は存在していない可能性が極めて高く立証するのは

難しいといえる。

 

このように、ニュルンベルク法の実際の運用は

多分に便宜的なものだったといえる。 』

 

 

 

ユダヤ人と仲良く生活していた青年時代のヒトラー

 

  http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha500.html#04

 

『ウィーン時代のヒトラーが接した人は、意外にもユダヤ人の方が多かった。

若年で、しかも経済力のあまりない「画家ヒトラー」には、

ユダヤ人の画商はなくてはならない存在だった。

その中から幾人かを紹介しておきたい。

 

※詳細は省略 元記事をご確認ください。

 ウィーン時代の若き頃のヒトラーには、複数のユダヤ人達との

友好的な交友関係があったことが示されています。

 

(つづき)

このように、ヒトラーは、収入の必要があれば絵を描き、

それをユダヤ人の画商に売って生活の資にしていたのである。

 

後のヒトラーの激しいユダヤ人憎悪からは想像できない話である。

青年期のヒトラーに詳しい津田塾大学名誉教授の藤村瞬一氏は、

次のように述べている。

「ヒトラーはウィーンで、いわゆる『反ユダヤ主義』に染まったわけではない。

 

ヒトラーのウィーン時代の生活にはユダヤ人の存在が欠かせず、

後年どうしてあのような極端なユダヤ人憎悪に走ったのか、

 

何が彼をそのように変質させたのか、究明しなければならない問題が残る」』

(抜粋 終わり)

 

 

 

  2018/11/14

ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった。写真は競売へ


 https://www.bbc.com/japanese/46204022

 

「2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、

米国でオークションにかけられることになった。

写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。


「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と、

同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。

「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。

 

しかし、この作品は衝撃的だ。

ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので愕然とした。」

 

 

  



親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、

アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書いた。

ユダヤ系の少女ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようだ。

ローザさんは1935〜1938年の間に、少なくとも17回にわたり

ヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。

 

  

 

ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、

ローザさんと母親に連絡を控えるよう命令するまで続いた。

ボルマンが、ヒトラーと少女の接触をやめさせた翌年、

第2次世界大戦が勃発した。

 

6年後の終戦までに、ユダヤ人600万人が死んだ。」

(抜粋 終わり)

 

 

 

ヒトラーは、「第二次世界対戦」という悪魔によるシナリオの

主役に抜擢されただけの人物であったと推測できます。