「女子教育に人生をささげた偉大な教育者」寺子屋です。 | すぎてつ日記

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初めまして『すぎてつ』です。
私が日々大切に考えている事や、オススメしたい本などを発信していきたいと思います。

2019年4月21日 日曜日 晴れ

No.776

今日もいい気候、いい天気。
気持ちのいい一日でした。


【尼崎たねまき寺子屋】

昨日は土曜日ということで、毎週恒例の寺子屋に参加してきました。


今週のプレゼン担当は、私「すぎてつ」でした。

参加者は
高校生1名
小学生6名
未就学児童6名
大人7名
でした。

そして、今週のタイトルは

日本の女性の地位向上のために
命をささげた教育者!


この時点で誰だかお分かりの方も多いのではないでしょうか。

まずは時代背景から、

明治時代、日本女性のほとんどは、父や夫に従うことが当たり前。
自分で人生を選択し、自分の思うように生きることができなかった。

女性ということだけで、教育も与えてもらえず、仕事もさせてもらえず、家の跡継ぎにもなれず、男性から一方的に命令される。

このままでは
日本の女性は
幸せになれない!

こうした日本の男尊女卑ともいえる状況に、憤然として立ち上がり、日本女性の地位向上に人生をささげた人物!

それが本日の偉人!

「この国の女性に必要なものは教育です!」

津田梅子(つだうめこ)さんです。


そうです。
梅子さんは、2024年から新五千円札になる人物です。

それでは、梅子さんがどれくらい凄かったのか?
いくつかの凄かったエピソードをご紹介します。

エピソード①  アメリカに留学

梅子さんは、父親の勧めで、日本人女性として初めて、アメリカに留学する5人の中の1人に選ばれます。
 

この何が凄かったのか?

・まず船でアメリカにいくのに乗船日数は?
23日間

・この時、梅子さんの年齢は?
7歳

・何年間の留学か?
11年間(もちろんその間、梅子さんは一度も帰国することはなく、両親もアメリカに会いに行くことはなかった)

・梅子さんが知っていた英単語は?
サンキューだけ

これだけでも十分すごくないですか?
7歳で英語も分からない娘を、11年間アメリカに留学させる親もすごい!
7歳から18歳までわが子に会えないなんて。

寺子屋に来られている親御さんにも「どう思いますか?」と問い掛けたら、「あり得ない、考えられない」との回答でした。

留学することに不安そうな顔の梅子さんに、父親が言った言葉が
「誰もしたことがないから面白い!」

この状況で、なかなか言えないですよね。


エピソード② 梅子の夢

15歳の頃の梅子さんは、一緒に留学している女の子三人と、会うたびに将来の夢について語り合うようになりました。


「私、いつか日本で学校を作りたい。
小さな学校がいいの。
そのほうが、一人一人を丁寧に教えることができるから。
そこでは、みんなが自由に意見を言って、お互いの知識や考えを深め合うの。
日本の女性のためにそんな学校を作って、勉強は本当に楽しいものだと知ってもらいたい。」


この夢すごくないですか⁉︎

15歳の女の子が、自分の願望ではく、人のためにという志が確立していて、ここまで具体的に理想を描いている。

しかも、勉強が本当に楽しいものだと知っていて、それを勉強をする習慣のない日本の女性に伝えたい。

私の15歳のときと比べると、ただただお恥ずかしいばかりです。


エピソード③ もう一度留学

華族女学校で四年間勤めた梅子さんは、もう一度アメリカに留学することを決断します。

理由は、進んだ教育学を学ぶため、学校創設のための知識を学ぶため。


一度目の留学から帰国した梅子さんは、桃夭女塾の英語の教師に就任し、その二年後に国立の華族女学校の教師に就任しました。

でも梅子さんは華族女学校で苦戦します。

なぜなら、この学校に通う生徒は裕福な家の娘ばかりで、花嫁修業の感覚で学校に通っていたから。

男性と同じ立場で仕事に就き、自立する女性を育てたいと考えていた梅子さんは、目的の違いに悩みました。

そして決断したのが留学。
進んだ教育学を学ぶことと、自分で学校を作るノウハウを学ぶため。

これ以外にも、梅子さんは様々な人生の節目に、収入、安定、地位、名誉、等々をすべて捨てて常に挑戦し続けました。

理由は、日本の女子教育のため。

凄すぎる、、、。


エピソード④ 日本女性代表に

梅子さんは33歳のときに、アメリカで開催された「万国婦人クラブ連合大会」にて三千人の世界中の女子の前でスピーチしました。


明治の初め頃は、日本の女性は世界の女性から大きく出遅れていたのに、わずか30年で世界中から賞賛されるまでになった。

本当にすごいことだと思います。

以上がすごいエピソードです。
まだまだありますがキリがないのでこれくらいに。

ここからは、梅子さんのお陰で日本がどう変わったのか?をご紹介します。

どう変わったのか①

「日本婦人米国奨学金制度」を設立させた。
・資金はアメリカで講演や募金で集めたお金。
・のべ25人の女性がアメリカの大学に留学。
・その女性たちはその後、女子教育のリーダーになった。



アメリカで集めた8千ドルというお金の金利で、三年に一人のペースでアメリカの大学に留学させてあげれたとのこと。

留学した女性の帰国後は、学校の校長先生や大学教授になったようです。

すごい貢献ですね。


どう変わったのか②
「女子英学塾」を開校させた。
・資金はアメリカの女性たちからの寄付。
・女性が高等教育を受ける日本初の学校。
・現在も「津田塾大学」として、のべ3万2千人を超える変革を担う女性を輩出している。


女性のための大学を女性が作る。
当時では不可能と言われていたことを成し遂げました。
とはいえ梅子さんも、あまりのハードルの高さに一時は諦めかけていたが、アメリカでヘレンケラーさんと会った時に、不可能なんか無いのだとスイッチが入ったようです。

すごいエピソードです。

最後に梅子さんの言葉を二つ紹介して終わりにします。

梅子さんの言葉①
「誰もしたことがないから面白い」


これはお父さまが留学前の梅子さんに伝えた言葉ですが、梅子さんもその後の人生で常に自分自身に言って鼓舞していたようです。

寺子屋の子どもたちにも、
・やる前から「無理!」って言ってませんか?
・「どうすればできるかなぁ」って考えてますか?
・恥ずかしがらずに一度やってみませんか?

と問い掛けました。

できるまでやめない習慣を持たせてあげたいものです。


梅子さんの言葉②
「教育には、立派な校舎や教材よりもずっと大切なものがある。それは、教師と生徒、両方の熱意です。」


両方の熱意。
今の学校の現場で、どれくらいの教室が両方の熱意を持てているのか?

心が突き動かされるくらいの理想像を、お互いに語り合うことが大切だと感じます。

「志」は自生しないので、誰かが子どもたちに「志」が芽生えるような言葉を伝えないと。

私が寺子屋をする理由もここにあります。
偉人の志、行動、言葉は、子どもたちに「志」を芽生えさせるパワーがあると信じています。

話を聴いているときの、子どもたちの真剣な眼差しは、それを証明してくれているようです。

『熱意と挑戦』

梅子さんにそんなことを学ばせてもらいました。

以上が今回の内容です。


来週の寺子屋は、校外学習で、尼崎信用金庫の「世界の貯金箱博物館」に社会見学に行かせてもらう予定です。

ご興味のある方はぜひご参加ください。


いつも「すぎてつ日記」を読んでいただきありがとうございます。