6月7日 火曜日 雨
今日は一日中雨でしたね
【本のご紹介】
今日は久しぶりに本の紹介をしたいと思います
着物会で懇意にさせてもらっている松田陽子さんから、お勧めしてもらった感動の一冊です
タイトルは
命のビザを繫いだ男
小辻節三とユダヤ難民
著者:山田純大 氏
1940(昭和15年)年、ナチスドイツに追われて逃げてきたユダヤ難民たちがリトアニアのカウナス日本領事館に日本へのビザを求めて押し寄せた。
領事代理の杉原千畝は、人道的な見地からユダヤ難民たちを他国へ逃がすため、政府の意に反して自身の命を懸けて、日本通過を許可するビザを発給した。
杉原の大英断によって多くのユダヤ難民たちがホロコーストを逃れ、日本へ向かった。
その数は最終的には六千人に及ぶとされる。
杉原が発給したビザはあくまでも日本を通過することを許可するビザであり、彼らに許された日本での滞在日数は多くても10日ほどであった。
たった10日間で目的地の国と交渉し、船便を確保するのは不可能である。
ユダヤ難民たちはビザの延長を求めたが、その願いは叶わなかった。
もし、ビザが延長されなければ、ユダヤ難民たちは本国へ強制送還されることになる。
それは彼らにとって『死』を意味していた。
そんなユダヤ難民たちの窮地を救った一人の日本人がいた。
その人の名は小辻節三。
小辻節三は次々と神戸に辿り着くユダヤ難民たちの窓口となり、日本政府と様々な形で交渉した。
そして見事にビザの延期を実現した。
それだけではなく、ビザがないために日本に入国できず、日本海の船上で助けを待つユダヤ難民たちに救いの手を差し伸べたり、彼らが日本で安心して生活を送れるように尽力した。
また、目的地へ向かう船便の確保のために船会社と交渉もした。
小辻の働きにより、太平洋戦争開戦前には、ほとんどのユダヤ難民たちが日本から目的地の国へと旅立つことができた。
当時の日本は、ナチスドイツと同盟を結んでいたこともあり、小辻の行動も杉原と同様に、政府とナチスドイツの意に反するものであり、何度も拷問を受けたり、命の危険にさらされている。
決断後に二人がとった行動は、私心のなさにおいて双璧の存在といえる。
本書は、この小辻節三さんの生い立ちから、志、苦難、最後の時まで、著者が自ら取材し、実に詳細に書かれています。
この日本人の誇りともいえる素晴らしい二人を、私たちは是非知るべきと感じご紹介させていただきました。
ご興味を持たれた方は、是非ご一読ください
それともう一つ衝撃を受けたことを。
著者の山田純大さんは1973年生まれと私の二つ歳下で、俳優さんです。
私と同じように、杉原千畝さんの本を読んで、感動したようです。
私はそれで終わりました。
ところが山田さんは三つの疑問を感じ、疑問を解消すべく調べ始めたようです。
①ユダヤ難民たちはどのようにして日本までたどり着いたのか?
②日本にたどり着いた六千人ものユダヤ人は日本のどこでどんな暮らしをしていたのか?
③たった10日しかない日本での滞在許可でどうやって目的地への入国を果たせたのか?
本や資料を手当たり次第に調べ、小辻節三さんにたどり着いたようです。
さらに山田さんは、小辻の実像に迫ろうと、
英語で書かれ海外で出版された自伝を探しあて読んだり、
小辻の友人に話しを聞くためニューヨークまで会いに行ったり、
小辻の二人の娘さんに会いに行ったりしたようです。
決して本を書こうと、取材を始めたわけではなく、ただただ感動し、疑問を放置せず、解消したくてここまで行動したようです
凄くないですか⁉️
同じ本を読んで、同じように感動したのに、私とこうも行動が変わるものかと⁉️
ちゃんと行動できていない自分に反省しました
山田さんはここまでした時に初めて、一人でも多くの人に小辻さんのことを知ってもらうことが、自分に課せられた使命のように思い執筆したとのことです
これも凄くないですか⁉️
どんな疑問も放置せず、全力で行動することで、使命に変わっていく。
私もこの人生で、どれだけ使命を増やせるか?
どれだけ使命に対して行動できるか?
そんなことを強く感じさせてもらいました
最終的に山田さんは、エルサレムに自ら足を運び、小辻さんを知るユダヤ人に取材をしたり、小辻さんのお墓を探しあてお参りしていました
山田さんも素晴らしいですね
【論語カレンダー】
自分の先祖でもないのに祭るのは、諂い(へつらい)である。
正義だと知りながら行わないのは、勇気がないのだ。
正に今日ご紹介した、杉原千畝さんと小辻節三さんは、正義だと知り、命の危険をかえりみず行動した、本当に勇気がある人ですね
私もそうありたいと心から思います
いつも『すぎてつ日記』を読んでいただきありがとうございます