生きているうちに死ぬことを考えるなんて不謹慎

 

必死で生きようとしている夫の隣で

「もしも」のときのことを考えている私は

冷たいのではないか

 

なんでこんなに冷静でいられるのだろう

なんで現実的なことしか考えられないのだろう

なんで淡々と「そのとき」に向けての準備ができるのだろう

私にはきっと感情が欠落しているのかもしれない

 

そう考えていました。

 

 

私が、夫の葬儀の資料を取り寄せたのは

亡くなる3ヶ月ほど前でした。

 

「もしも」のときには、きっと時間がないんだろうな

自宅から病院まで遠いから…運ぶのも大変なんだろうな

 

少しずつ体力は低下していましたが

先生も本人も生きるんだという思いで、たくさんの手術に挑んでいました。

 

私ももちろん同じ思いですが、

それと同じだけ不安がありました。

どうなるのだろう…と。みんなはっきりは言ってくれないけれど…

こんなに痩せてこんなに管がついていて…

本当に元気に回復してくれる?

肺からはドレーンが3本

首には透析と人工呼吸器が

肝臓からも管

尿道にも

見たこともないたくさんの機械が夫の臓器の代わりを努め、

どうにか生きている。

生きている=幸せなのか…

ベットの上でスマホも握れないのに…

 

という思いと

元気にならなくても生きていてほしいという思いと

 

 

本人は本当に手術を臨んでいる?

血圧が低くて意識が朦朧としているときも、私が代筆しているけれど…

という葛藤と

 

準備していないと突然には耐えられない。

ゆっくり心の準備をしないと受け入れられないと。

 

大分昔、まだ元気だった頃

夫は家族葬で良いと言っていた。

 

取り寄せた資料は「小さなお葬式」の資料でした。