決して触れてはいけない場所に迂闊に触れてしまった恐怖に、私はカチカチと歯が鳴るほど震えていた。「でも俺さ、」寒い。「俺、昨日そいつと飲んだんだ。なんだろな。」寒い。寒い、寒い。エアコンを止めて。止めてください。誰か。「俺もあいつも頭おかしいんだ、ほんと。なんでそんなことできてんのか、ほんと全然わかんなくて。たぶんあいつもよくわかんないと思うんだけど。」その話を私はもっと聞くべきなのだ。きっと私にしかできないのだから。でも今の私は、その役目を放棄しようとしている。逃げようとしている。「おかしいんだよ、俺。じゃなきゃ…」レイもきっと、私の恐れを感じ取っている。私の心が後ずさっていることを覚っている。「レイ、もう…」「あ、そうだ。」元気のいい声で無理やり私の言葉を遮った割には力なく微笑んで、レイはコーヒーを飲みほした。「俺がまだ何か隠してるって思うんなら、思ってていいよ、別に。」どうせサヤだって俺に全部晒してるわけじゃないんだし。と、軽い口調とは対極の位置にあるその目が言っていた。そのあとどうしたのか、よく覚えていない。少なくとも、私は自分から席を立った。アイスチャイの代金には少し高い千円札を、置いてきた。いつもならバイクで帰れるのに。地下鉄駅の人ごみに何度もぶつかりそうになりながら、私はただ歩き続けていた。この地下道の角を曲がって階段を上れば、私鉄に続く通路に出る…「…たっ…」背中を弾かれて地下道のタイル壁に左肩をぶつけていた。私を突き飛ばして通り過ぎた誰かは、人ごみに紛れてすぐ見えなくなった。頭を打ったわけでもないのに、体に力が入らなくてよろめく。通り過ぎる人にぶつからないよう壁際によりかかって、意識が正常な形に戻るのをひたすら待つ。「あ…」行き過ぎる人の流れの奥。焦点の合わない目が、何か光るものを捉えた。「たか、し…」青白い小さな顔。「…崇志…」違う。あれは崇志じゃない。本当によく似ているけど、違う。わかっている。でも、私はあの人の名前を知らない。どうやって呼び止めればいいのか、わからない。「崇志、待って…待って…崇志!」それは自分の名ではないはずなのに、その人はハッとして立ち止まった。人波が堰きとめられ、後ろを歩いていた人々は彼を睨んだり舌打ちをしたりしながら、彼をよけて足早に行き過ぎる。彼が捜している。視線を不安定にさまよわせ、必死に周りを。「崇志…ここだよ、崇志…あたし、ここにいるの!崇志!」彼が捜しているのは私ではない。きっと私の『声』だ。突っ立った彼が振り向いて、人の波を分けるように私に近づく。壁にもたれてきっと情けなく笑っている私を覆うように、前に立つ。「なーさん…や…あんた…なんで…なんで…?」力が戻りきらないまま、彼の腕に倒れこみ、逃がさぬように胴を抱きしめた。彼の腕も私に引かれるように私の背に回される。「崇志…崇志…!」この男は崇志じゃない。でも私はこの男を知っている。今もまだ名前も知らぬまま。そしてこの男も私を知っている。今もまだ名前も知らぬまま。過去も未来も何もわからないまま互いの体の隅々まで愛し合い慈しみ合った記憶が、突き上げる。地下道の壁際で一つの石の塊のように動かない私たちの脇を、休日の夕方の雑踏が流れてゆく。私とその男は、互いを見つめあい、互いの腕をきつく掴み、水が上から下へと流れるように寄り添い抱き合っていた。恋愛小説 ブログランキングへにほんブログ村↑ぽちしてね♪
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