『本能寺の変』後、当日
6月2日羽柴秀吉は中国地方の毛利氏を攻略する為
備中高松城を攻撃していたのである!!
翌日6月3日の事である……秀吉軍陣地に明智光秀が毛利氏に出した忍びが迷い込んだのである!!
秀吉は不審と思い捕縛するのである!すると密書が見つかったのである!この時初めて秀吉は明智光秀の謀反により織田信長の死を知ったのである……………!!
秀吉は、すぐさま毛利氏と和睦をし約3万の軍勢を率いて京に向かうのであった!まさに強行軍である!じつに1日平均30㌔と言う距離を、大規模な軍勢を率いて7日間で大移動したのである!のちにこれを……
『中国大返し』と謳われるのである!!
一方……宗易(千利休)は京を抜けだし一路、堺(大阪)へ向け移動していたのである!!宗易は今井宗久と弟子の山上宗二と共に行動していたのである!!
せっかくの築いた地位も水に流れ!我々の運命はどうなる物か?明智の…………天下になるのか?次は明智に取り入るか?と今井宗久は言う!!
宗易は明智には魅力する力が無く、何より昔からの織田家臣団が黙ってはいまいと言う!!
山上宗二は……仇討ちは柴田勝家様が取るであろうと言うが宗易、今井宗久は羽柴秀吉だと言うのである秀吉は織田軍団で1番目先のきく男!魅力する力はある!!
そして羽柴秀吉に賭けようと一路…摂津の国の尼崎へ向かうのである!
秀吉は素早い動きでわずか9日後には摂津の国尼崎に到着していたのである
そして尼崎で秀吉、宗易の会談が始まったのである!宗易は秀吉に堺商人は貴公にお味方致します武器、食糧等!を援助致しますと言う宗易は考えた上での決断なのである
1582年6月13日ついに……勃発!羽柴軍対明智軍は激突したのである………
明智軍は羽柴軍を山崎で向かえ打つのである……
『山崎の戦い』の始まりである!この戦いでは………孤立した明智軍に羽柴軍が大軍勢で攻め入り明智軍は敗北し……光秀は山奥に敗走し林道にて落ち武者狩りに殺されてしまうのである!!
本能寺の変からわずか………13日後の事である!
その後…羽柴秀吉は清洲会議(世継ぎ問題)のあと賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を打ち破り!その後…小牧・長久手の戦いで秀吉は苦戦するものの徳川家康を破り……
天下統一への道へと突き進むのである!!!
宗易は秀吉の目に留まり茶頭となり出世の道を歩み始めたのである!!
大阪城築城にあたっては堺商人の全面的協力があったのである!!
秀吉は天下一の名城じゃ~と喜びに満ちていた!
秀吉はワシの力をワシの名を世に知らしめてくれようぞぉ!と意気込んでいたのである!!
ついには『黄金の茶室』を作ってしまうのである!そこで宗易を呼び出し 秀吉はこう言うのである
天下広しと言えども…このような茶室は誰も持っておらぬわぁ~!!
そこでじゃ~公家、大名を呼び茶会じゃ茶会を催すのじゃ~!!
そこで宗易は…名のある茶器が足りませぬ!名品のほとんどは本能寺で信長公と共に焼失してしまいました………!
秀吉は『黄金の茶室』に似合う茶器が欲しいのぅ!名品はないのかぁ?と言い宗易は我が国の茶道具を作ると言うのは如何でございますか?『唐物』に負けぬ立派な茶道具が作れるはずでございます………!秀吉はスグサマ宗易に作ってみよ!!と言ったのである!!
宗易は瓦職人を指導し『ろくろ』を使わない独自の技法で茶碗を作りあげたのである!!
楽焼茶碗『黒楽』『赤楽』この茶碗が今後の人生に左右されると宗易は知るよしもなかった……
1585年天正13年
秀吉は御所にて朝廷より関白・太政大臣の位に任命され、そして豊臣と言う新しい姓を賜ったのである!!
ここに関白・豊臣秀吉が誕生したのであった…そして関白の権威により…
『惣無事令』を発するのである!!すべての大名は勝手に戦を起こしてはいけないと言う条令である!
一方……宗易はこの年に朝廷より利休居士号を賜わったのであった!!
ここに茶聖・千利休が誕生したのであった!!!
同年1585年天正13年
利休は秀吉が主催した大茶会を主宰し、また禁裏茶会でその後見役を勤め秀吉の信任を得るのであった!!
これを機に利休の名声は一気に高まったのである!それは茶の湯を権威づけに利用する秀吉にとって、願ってもない事でもあった!!
秀吉はある春の日に大きな金色の鉢に水をはって床に置き、かたわらに紅梅一枝を置き利休にその花をいけよと命じたのである…そこにいた誰もが難題だ!いくら利休でも音をあげるのではと心配したのだった………
しかし利休は『絶対美感』のようなものを備わっていたのではないでしょうか?!
利休は落ち着き払った様子で、紅梅の枝を逆手にとると、これをそのまま鉢の中に差し入れたのである!すると、花や蕾が水面に浮かび、なんともいえない風情をかもしだした!これを見た秀吉は、どんなに困らせようとしても、困らぬやつじゃと、いたく上機嫌であったと言う。
秀吉と利休は心の奥底で通じ合うものがあったようである!!
利休はこれにより『侘び・寂び』の精神が根づいたのでしょう!
その後、利休は秀吉を茶室に招いたのである…秀吉は茶室を見るなり小さいし陰気くさいと言うのである!!さらに秀吉は小さな入口を見て………ここからワシに入れと申すか!?
利休は…この茶室には何人と言えども『にじり口』(小さな入口)を通らねばお入りになれません!秀吉は渋々と中に入るのである…秀吉は利休に言うのである!!この頭を下げさせるはおまえだけじゃ!!わっはははは!秀吉は黒茶碗より赤茶碗が好きだと言い帰るのであった!!
この頃から茶の湯の席は密室政治の塲でもあった!利休は秀吉の弟で豊臣秀長というよい理解者を得て秀吉の側近政治に深く関与していくのである
豊臣秀長は温厚な人柄で諸大名から人望を集める実力者であった!!
秀吉に頼る為に大阪に上った豊後の大友宗麟は……利休以外に関白様にひと言でも、もの申し上げられる者は誰もいないだろう!と言うまでの存在になって居たのであった
利休の権威は絶大であったのである!!
ある日…利休は秀吉を茶室に招いたのである!!
秀吉は利休に、この茶室は小さすぎる!わずか一畳半の茶室では息がつまるではないか!!もっと派手に致せ!この茶碗も気にいらん!ワシが許した者だけに作法を教えろ……そして茶の形を造るのじゃ~!ワシとお前しか知らん秘伝の極意をぉ!この頃から秀吉は茶の湯を自分の物にしようと思っていたのである!!
1589年天正17年
利休は私財を投じて京・大徳寺山門を修築したのである!
この事により大徳寺の和尚から利休様の木像を山門の二階にお収めたいのですがぁと言うのである
利休は丁寧に断りを入れるのだが…和尚はこれはしきたりですと言い…やむを得ず利休は承認してしまうのであった………
1590年天正18年
秀吉は遂に天下統一の為に小田原征伐に乗り出すのである!!
利休は秀吉の諸戦役にも従軍し、滞在中にも茶会を催しているのである!
圧倒的な強さで豊臣軍が圧勝したのは言うまでもない…この戦いで北条方の茶頭だった利休の弟子・山上宗二は降伏したものの秀吉の怒りをかって処刑されたのである!!
利休は、山上宗二の死の報せに号泣したと言われている!!!!
利休はこの頃から秀吉に対して憎悪を抱くようになったのである………
ある日…茶の湯の席の事である利休は秀吉に茶の道は色・形にとらわれる物ではありません個々の心……秀吉は激怒!!色も形もなければ人にどうやって伝える!心で人は動かぬ!お前の地位も茶道具も色・形は個々ではなく皆が認めるものぞぉ~!!利休!唐倒陣(朝鮮出兵)に異を唱えることは許さん!!
1591年天正19年
頼りにしていた豊臣秀長が病死したのである!!
この事により利休は孤立させる事になったのである!!豊臣秀長死後………利休を排除しようとする策謀が豊臣政権内部で活発になっていたのである…………
そして……大徳寺山門で臨検され利休木像を発見されてしまうのである!
殿下(秀吉)がくぐる御門に己の像をかかげるなどと不敬の極み!!!
大徳寺山門修築から二年後もたってからの突然の罪に問われる事になったのである……さらに茶道具を不当に高い値で売買するとは持ってのほか!
利休は…秀吉様が申されたのかぁ……?!
石田三成は『無論!』である……と少し笑みを浮かべがら告げたのである
1591年天正19年2月23日千利休は、ついに秀吉の命により堺の自宅に護送され謹慎となった………
つづく……………
※誤字脱字は御了承下さい!クレ-ム等は一切受付致しませんのでヨロシクお願いします致します!
なおこの文章は神無月の独断で考えた物ですので少しフィクションが入ってますが御了承下さい!
☆神無月☆