さぁ~歴史の扉を開けて見よう!!!!!!!!!!
関ヶ原の合戦から約409年!主君のために身命を捧げ、生きることに命を賭けた戦人の思いを……!
東軍の将◎徳川家康
西軍の将◎石田三成
お互いが何を思い?何を信じ戦ったのでしょう?
石田三成は案外!悪者扱いされるのですがぁ……本当に悪者だったのでしょうか?
石田三成ほど誤解されている男も珍しい! ̄∇ ̄和讒者(わんさんもの)という言葉がある。現在ではほとんど耳にしないが、近世の初めに盛んに使われていたらしい。
主君の側近く使え、その耳に讒言(ざんげん)を吹き込む者……すなわち君側(くんそく)の奸(かん)である。
つまり『告げ口』である!真面目であるが為、周りに敵を作りすぎたに違いない ̄~ ̄
真っ直ぐすぎる男
石田三成
『義』の精神の下に優秀な武将が集まったのである!
直江兼続、真田幸村、
大谷吉継、前田慶次郎
島左近
彼らは三成を『生涯の友』と認め強い絆で結ばれたのである ̄∀ ̄
そして関ヶ原の合戦へと…………
1598年8月18日
太閤・豊臣秀吉死後……
徳川家康はすかさず行動に出たのである!家康は、秀吉の息子である秀頼が成人するまで政事を家康に託すと言う秀吉の遺言を利用して実権を握ると、諸大名の屋敷を頻繁に訪問するなど、巧みに味方を増やして行った…一方、五大老そして五奉行の石田三成らが反発!家康は、今彼らとの対立は得策ではないと判断し家康は‘待つ’作戦にでる!それから、五大老の長 前田利家が病死し、もはや互角に渡り合える勢力無しと判断し、本格的に豊臣家断絶に乗り出したのである…
石田三成は豊臣家を蔑(ないがしろ)にする家康に対し憤概した。その事に直江兼続もその義心に感じ、ふたりは打倒家康を誓う。
そして1600年 直江兼続は上杉家に謀反の動きありと言い放った徳川家康に対し『革籠原(かわごはら)を死場所に!さもなくば我らの墓所に!』(攻めてこい、全勢力を集結し返り討ちにしてやる!)かの有名な直江状を送り付けたのである
家康は『この歳になるまで、これほどに無礼な書状を読んだことはない』と赫怒(かくど)し遂に越後 上杉討伐に進軍!
凝れを機会に石田三成が挙兵!したのだがぁ……徳川家康はスグサマ反転し西へ向け進軍したのである……………………!
そして1600年9月15日、霧がはれ午前八時………ついに関ヶ原で天下分け目の大決戦の火蓋が切って落とされたのである!!
東軍 徳川家康7万5千人
西軍 石田三成8万4千人
この時、西軍の実際合戦に参加している人数は……3万3千人程であったらしい!石田三成、島左近、大谷吉継ら『義』の絆で深く結びし者達も奮闘……土壇場で相次いだ予想外の誤算!!西軍側の大名が東軍に寝返りしまいには小早川秀秋までもが大勢は大きく逆転し…追いつめられた大谷吉継は自刃し…それまで奮闘していた島左近は生死も不明?次々と壊滅して行ったのである!
午後四時 合戦は終結!
9月21日石田三成は近江の山中で旧友・田中吉政によって捕縛されたのである!!
10月1日 六条河原にて
石田三成 斬首享年41歳
まさに『忠義・恩義・信義』の貫き通した男のどこが悪者であろうか……まさしく戦国の定めではないでしょうか……
己の信念に殉じる潔さと切なさを持つ名将
☆石田三成☆
『筑摩江や 芦間に灯す かがり火とともに消えゆく 我が身なりけり』
※誤字脱字は御了承下さい!!
これは、全て私の考えであります(`▽´ゞ
関ヶ原の合戦から約409年!主君のために身命を捧げ、生きることに命を賭けた戦人の思いを……!
東軍の将◎徳川家康
西軍の将◎石田三成
お互いが何を思い?何を信じ戦ったのでしょう?
石田三成は案外!悪者扱いされるのですがぁ……本当に悪者だったのでしょうか?
石田三成ほど誤解されている男も珍しい! ̄∇ ̄和讒者(わんさんもの)という言葉がある。現在ではほとんど耳にしないが、近世の初めに盛んに使われていたらしい。
主君の側近く使え、その耳に讒言(ざんげん)を吹き込む者……すなわち君側(くんそく)の奸(かん)である。
つまり『告げ口』である!真面目であるが為、周りに敵を作りすぎたに違いない ̄~ ̄
真っ直ぐすぎる男
石田三成
『義』の精神の下に優秀な武将が集まったのである!
直江兼続、真田幸村、
大谷吉継、前田慶次郎
島左近
彼らは三成を『生涯の友』と認め強い絆で結ばれたのである ̄∀ ̄
そして関ヶ原の合戦へと…………
1598年8月18日
太閤・豊臣秀吉死後……
徳川家康はすかさず行動に出たのである!家康は、秀吉の息子である秀頼が成人するまで政事を家康に託すと言う秀吉の遺言を利用して実権を握ると、諸大名の屋敷を頻繁に訪問するなど、巧みに味方を増やして行った…一方、五大老そして五奉行の石田三成らが反発!家康は、今彼らとの対立は得策ではないと判断し家康は‘待つ’作戦にでる!それから、五大老の長 前田利家が病死し、もはや互角に渡り合える勢力無しと判断し、本格的に豊臣家断絶に乗り出したのである…
石田三成は豊臣家を蔑(ないがしろ)にする家康に対し憤概した。その事に直江兼続もその義心に感じ、ふたりは打倒家康を誓う。
そして1600年 直江兼続は上杉家に謀反の動きありと言い放った徳川家康に対し『革籠原(かわごはら)を死場所に!さもなくば我らの墓所に!』(攻めてこい、全勢力を集結し返り討ちにしてやる!)かの有名な直江状を送り付けたのである
家康は『この歳になるまで、これほどに無礼な書状を読んだことはない』と赫怒(かくど)し遂に越後 上杉討伐に進軍!
凝れを機会に石田三成が挙兵!したのだがぁ……徳川家康はスグサマ反転し西へ向け進軍したのである……………………!
そして1600年9月15日、霧がはれ午前八時………ついに関ヶ原で天下分け目の大決戦の火蓋が切って落とされたのである!!
東軍 徳川家康7万5千人
西軍 石田三成8万4千人
この時、西軍の実際合戦に参加している人数は……3万3千人程であったらしい!石田三成、島左近、大谷吉継ら『義』の絆で深く結びし者達も奮闘……土壇場で相次いだ予想外の誤算!!西軍側の大名が東軍に寝返りしまいには小早川秀秋までもが大勢は大きく逆転し…追いつめられた大谷吉継は自刃し…それまで奮闘していた島左近は生死も不明?次々と壊滅して行ったのである!
午後四時 合戦は終結!
9月21日石田三成は近江の山中で旧友・田中吉政によって捕縛されたのである!!
10月1日 六条河原にて
石田三成 斬首享年41歳
まさに『忠義・恩義・信義』の貫き通した男のどこが悪者であろうか……まさしく戦国の定めではないでしょうか……
己の信念に殉じる潔さと切なさを持つ名将
☆石田三成☆
『筑摩江や 芦間に灯す かがり火とともに消えゆく 我が身なりけり』
※誤字脱字は御了承下さい!!
これは、全て私の考えであります(`▽´ゞ