東日本大震災から10年が経ちました。
未だに当時の映像を見たり、あの日の事を思い出したり話をすると胸が締め付けられるような想いが蘇ります。
震度5弱だった東京23区内に住んでいる僕でもそうなのだから、被害の大きかった東北の人たちの心の傷がもっと大きいのは想像に難くありません。
と、同時に1995年1月17日の阪神・淡路大震災、2016年4月14日の熊本地震を始め、この50年の間だけでも日本ではマグニチュード7以上の地震は10回以上あり、各地で被災した方々も同様の想いを地震発生日には抱いていると思います。
改めて、被災した方々、不幸にも亡くなってしまった方々とその遺族の方々へ哀悼の意を表したいと思います。
2011年3月11日(金)14時46分、あの時僕は会社の会議室で新しい派遣社員採用の面談をしている最中でした。
その少し前、事務所内で社員たちの携帯電話から地震警報のアラームが鳴り響いているのが聞こえたので、当時会社の安全衛生委員事務局員でもあり防火管理者(資格を持っていたのが僕だけだったのでなし崩し的に任命されていました)だった僕は、事務所内にいる社員に前年9月に実施した避難訓練の通りに行動をするように指示して会議室に戻った直後のアノ揺れ。
女性社員たちの悲鳴が聞こえたので、役員・全従業員に対して屋外の駐車場へ退避するように伝え、社屋内に誰も残っていないことを確認してから僕も退避し、退避場所で全員居るかを点呼確認。
揺れが収まったところで事務所に戻ったら二度目の大きな揺れで再度退避。
二度目の揺れが収まったので、事務所に戻り被害がないかを確認するように伝え、ショールームにある大型モニターをテレビ映像に切り替えた時に目に入ってきたのが、あの三陸での津波映像でした。
他部署の部長が陸前高田市の出身で両親が住んでいるのを知っていたので、安否確認をするように伝え、なかなか電話が繋がらなかったようですが、なんとか繋がり安全を確認出来たとほっとした表情でした。
同15時45分に、電車の運休、それに伴い道路渋滞でバスが動けなくなるとの情報が入り、即時帰宅命令、月曜日以降の出社については改めて緊急連絡網で連絡を回すのでそれまでは自宅待機との指示が社長からの出ました。
僕はあの日は自転車で通勤していたのでスムーズに帰宅出来たのですが、道路は既に渋滞で車が動いていない状態でした。
都心に勤めていた妻からは一度メールで連絡が取れたきりで、ようやく連絡が取れたのは深夜2時頃で、千疋屋日本橋総本店のフルーツパーラーのマスターの手引きでお店に避難していて食事も提供してもらったから、電車が動き次第帰るとの事。
結局、妻が帰宅できたのは12日の朝8時過ぎでした。
当時、八王子そごうに勤めていた友人は電車が止まっていたので、甲州街道を4時間かけて歩いて国立市の自分の家に帰ったそうです。
千葉県に住む甥っ子は、浦安に運転免許の試験を受けに行っていて帰りの足がないので、やはり徒歩で3時間かけて帰宅したとの事。
携帯電話は繋がりにくかったけど、固定電話は普通に繋がったので立川市の実家へ安否確認したところ、母は用事で外を歩いていたので地震に気が付かなかったと呑気な返事。
それでもガレージの支柱が曲がってしまったと言っていた。
僕は帰宅途中に家具や家電が倒れていないかを心配していたのですが、幸いにも何も倒れていないばかりか、すごく不安定に置いてあった置物まで何一つ落ちていなかった事に驚きました。
(妻の友人宅は都心のタワーマンションの15階なんですが、浴槽に20cmくらいしか入っていなかった水が全部洗い場に出てしまったり、食器棚が倒れて食器が全部割れてしまったらしいので、高い所には住むものじゃないなって思った。)
帰宅してすぐに当時5匹いた飼い猫の様子を確認。
3匹は何事もなかったかのように妻の布団の上で寝ていて、1匹はカーテンレールの上にいて、僕の姿を見ると飛びついてきて震えている。
残る1匹の姿がどうしても見つけられず、呼んでも出てこない。
そのうち出てくるだろうと思っていたけど、4時間くらいたった後にガタっと音がしたので見に行くと、電子レンジを置いてある棚の後ろと壁の間に挟まっていた。
まだ子猫だったので脱出しようともがいているうちに疲れて寝てしまっていたようです。
当時5匹いた猫のうち2021年3月現在でまだ生きているのは、この1匹だけで4匹は天寿を全うしました。
でも残っている1匹も2年前の夏に腎臓病を患って入退院を繰り返し、その後も毎日の投薬と2週間に一度点滴の為に通院していて、いつまで元気で生きてくれるかは分からない。
(他にも今はアメリカンショートヘアーのオスとベンガルのメスを飼っていますが、どうしても病気の猫が最優先になってまうのでちょっと拗ねた態度をとります。)
横道に逸れましたが、あの日以降数週間、コンビニやスーパーから飲料水や食料品が心無い人たちの買い占めにより棚から消えましたね。
海外のニュースでは災害があったのに日本人は規律正しく順番を守ったり、争いが少ない民度の高い国と報道されていましたが、実際は被災地へ金目の物を盗みに行く連中やこうした自分の事しか考えないで余分な物まで買い占めるような人たちが大勢いて、ちっとも民度なんて高くないと思う。
そりゃ外国みたいに食料品確保の為に人殺しまではしない国民性ではあるけれど。
テレビもいつまでもどのチャンネルに変えても地震と津波の映像ばかり、CMもACのものばかりでしたね。
余震も続いていたので、地震がなくても何だかいつも揺れているような感覚が暫くの間続き、これじゃ、相当な人が精神的に参ってしまうだろうなって思ってました。
当時、義援金を送ることや生活必需品等を被災地に送ることしか出来なかったし、今後もそれ以外の直接的な支援活動は出来ないとは思うけど、何もしないよりはマシと思うようにしています。
東京だって、いつ被災地になるか分からないし、困った時はお互い様ってのが我が家の江戸時代から代々続いてきた江戸っ子の心意気ってもんですからね。
自然災害は避けようがない事だけど、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではいけないし、そこからの教訓は生かさないといけないと思うんですけど、被災者以外の多くの人はマスコミも含めて既に過去の事、他人事のように考えているようで少し怖いなって思っています。
あの日の後日、頸椎ヘルニアに苦しんでいて、調布市で開業しているヘルニアに関するスーパードクターの手術を受ける為に3年待ちの予約をしていた友人が、繰り上げですぐに手術を受けられるようになったと連絡があり、理由を聞くと友人の前に予約していた何十人もの人が震災で亡くなった為に繰り上げになったそうで、その友人は未だに東北地方の方へは足を向けて寝られないと言っています。
地震が無ければ、津波が無ければ、その人たちは苦痛から解放されて元気に暮らしていた事を思うとやり切れない思いだと。
と、10年経った今、あの日を思い出してダラダラと書いてしまいました。
あの日を経験した人の人数分だけ、いろんな出来事や想いがあると思います。
辛い想いや悲しい想いばかりだとは思いますが、10年という節目で、あの日を忘れない為にも思い起こしてみては如何でしょうか。