ネットの掲示板やブログ等を見ていて思ったことシリーズです。
「大人は若者の個性を認めてくれない」とか、
「個性を伸ばす教育とか言いながら、日本は個性を潰す」等の
書き込みを目にすることがあると思います。
国語辞典で「個性」を調べてみますと・・・
個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。
(デジタル大辞泉)
個性を英語で、personality と言いますが、英英辞典では、
someone's character,
especially the way they behave towards other people.
(Longman Dictionary of Contemporary English)
と、なっています。
つまり、個性とは他の人(物)と区別するための目印に過ぎないわけで、例えば、身体障害者の身体的特徴や、精神障害者の症状も、客観的には不自由を強いる特徴であっても、それがその人を形成する上で必要不可欠な要素であるならば、それを個性と呼ぶということもあるということです。
他人との違いを表わす目印のようなもの・・・一般的には、その人の外見であったり、性格であったり、思想であったりすると思いますが、そこには、社会通念上とか法律上とか、その集団の中のルールとか社会的常識の範疇で許容されるもの(こと)という絶対的な前提があって成り立つという意味が隠されています。
ここを履き違えている人が日本人には多いんだと思います。
好き勝手自由に我儘放題することを「個性」とは決して言いません。
それは、単に「わがまま」なだけですし、敢えて言えば、それを個性だと思っている人は「犯罪者予備軍」という目で世界では見られかねないってことです。
「自由の国」アメリカ合衆国では、各地にある戦没者の慰霊碑には、必ず
『 Freedom is not Free 』
の文字が刻まれていますし、学校の新学期が始まる時には、「星条旗への誓い」という国家への忠誠を誓う儀式があります。
自由はタダで手に入るものではない、何かを犠牲にして始めて手にするものだ。
何か(誰か)の犠牲の上に、自由は成り立っているのだ。
そのためには、教会への服従と国家への忠誠が欠かせないのだ。
と、アメリカ人は生まれた時から教育されているそうです。
しかも、アメリカは銃社会です。
いつ、理不尽に射殺されるか分からない国です。
そうした背景があった上で、個人の我儘と個性はまったくの別物だと徹底的に教えられます。
日本とはぜんぜん違うんですね。
今の日本人の多くは、宗教と言っても結婚式と葬式の時くらいにしか意識しないでしょうし、国に対して忠誠心なんてかけらも持ってないでしょう。
僕もそうです。
でも、日本だって、「自らを以って由と為す」という言葉から「自由」という文字を作った国です。
他人に迷惑や不快な思いをさせない範囲を自分で考えた上で行動しなさいという意味です。
先ほどの国語辞典で「自由」を調べると
法律の範囲内で許容される随意の行為。
と、なっています。
まず、人間として、ここが出来ていないうちは個性を主張したりしない方が懸命です。
個性だと自分では思っている部分が、他人の目には単なる我儘に映っていると考えてみるといいと思います。
認めてもらえないのは、それが個性ではないからです。
それが個性なら、誰からも認めてもらえます。
「大人は若者の個性を認めてくれない」とか、
「個性を伸ばす教育とか言いながら、日本は個性を潰す」等の
書き込みを目にすることがあると思います。
国語辞典で「個性」を調べてみますと・・・
個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。
(デジタル大辞泉)
個性を英語で、personality と言いますが、英英辞典では、
someone's character,
especially the way they behave towards other people.
(Longman Dictionary of Contemporary English)
と、なっています。
つまり、個性とは他の人(物)と区別するための目印に過ぎないわけで、例えば、身体障害者の身体的特徴や、精神障害者の症状も、客観的には不自由を強いる特徴であっても、それがその人を形成する上で必要不可欠な要素であるならば、それを個性と呼ぶということもあるということです。
他人との違いを表わす目印のようなもの・・・一般的には、その人の外見であったり、性格であったり、思想であったりすると思いますが、そこには、社会通念上とか法律上とか、その集団の中のルールとか社会的常識の範疇で許容されるもの(こと)という絶対的な前提があって成り立つという意味が隠されています。
ここを履き違えている人が日本人には多いんだと思います。
好き勝手自由に我儘放題することを「個性」とは決して言いません。
それは、単に「わがまま」なだけですし、敢えて言えば、それを個性だと思っている人は「犯罪者予備軍」という目で世界では見られかねないってことです。
「自由の国」アメリカ合衆国では、各地にある戦没者の慰霊碑には、必ず
『 Freedom is not Free 』
の文字が刻まれていますし、学校の新学期が始まる時には、「星条旗への誓い」という国家への忠誠を誓う儀式があります。
自由はタダで手に入るものではない、何かを犠牲にして始めて手にするものだ。
何か(誰か)の犠牲の上に、自由は成り立っているのだ。
そのためには、教会への服従と国家への忠誠が欠かせないのだ。
と、アメリカ人は生まれた時から教育されているそうです。
しかも、アメリカは銃社会です。
いつ、理不尽に射殺されるか分からない国です。
そうした背景があった上で、個人の我儘と個性はまったくの別物だと徹底的に教えられます。
日本とはぜんぜん違うんですね。
今の日本人の多くは、宗教と言っても結婚式と葬式の時くらいにしか意識しないでしょうし、国に対して忠誠心なんてかけらも持ってないでしょう。
僕もそうです。
でも、日本だって、「自らを以って由と為す」という言葉から「自由」という文字を作った国です。
他人に迷惑や不快な思いをさせない範囲を自分で考えた上で行動しなさいという意味です。
先ほどの国語辞典で「自由」を調べると
法律の範囲内で許容される随意の行為。
と、なっています。
まず、人間として、ここが出来ていないうちは個性を主張したりしない方が懸命です。
個性だと自分では思っている部分が、他人の目には単なる我儘に映っていると考えてみるといいと思います。
認めてもらえないのは、それが個性ではないからです。
それが個性なら、誰からも認めてもらえます。