不入斗とは何なのか 7 | protoplastico surfboards & designs  

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千葉県富山町の不入斗と熊野神社が所有していた荘園「郡房荘」について書かれた文書を転載します。

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・不入斗 「イリヤマズ」と呼びます。平安時代、寺院や貴族の所有する荘園は、「不輸不入」と言って税を免除され、国司や郡司も立ち入ることもできませんでした。平安時代、この附近にあったと言われる紀州熊野権現の荘園「郡房荘」の一部であったと考えられますが、国衙と何か係わりがあったかどうかは、はっきりしません。

「郡房荘」は、「ヘグリアワノショウ」または「グンボウショウ」と呼び、「平群郡」と「安房郡」にまたがった地域にあったというのが通説となっています。文献には、養和2年の新熊野社領文書に記載されており、誰が寄進したかは不明です。この年は、石橋山の合戦で敗れ房州に逃れた源頼朝が、当地の豪族安西三郎景益に助げられた2年後のことであり、頼朝や安西氏との係わりも考えられます。その位置については、現在の府中の東側に「不入斗」という地名が残っていますが、これが「郡房荘」の一部ではなかったかと思われます(「不入斗」とは神田で租税が免除された土地のこと)。また、この東方には、安西氏の館があったといわれる「池ノ内」や「御庄」という地名があることなども考え合わせると、「郡房荘」は、一つのまとまった荘園ではなく、所領があちこちに散在した荘園であり、それらの荘園の管理には、安西氏があたっていたのではないかと思われます

---南房総資源辞典より

富山町の不入斗は縄文期から栄えた大きな集落だったようで、【不入斗=小集落】説や、【不入斗=痩せた土地】説は条件に合わなそうです。

不入斗が「不入の権」に絡んだ土地であることは分かって来ましたが、神社所有の荘園は全国に多数あり、それらは同じように不入の権を賜っていたはずです。何故そこに、あえて不入斗と言う地名をつけたのかは謎のままです。

各地の不入斗に不入の権を与えた経緯が分かる資料があれば解決の糸口になるでしょう。

しかし、それにはいつ頃から不入斗と呼ばれるようになったのかを知らなくてはなりません。

日本の律令制は、7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施されておりそのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされています。

646年から孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる【大化の改新】において、4つのマニフェストとして掲げられたのが、

・豪族らの私有地を廃止すること
・中央による統一的な地方統治制度を創設すること
・戸籍・計帳・班田収授法を制定すること
・租税制度を再編成すること

ですので、【不入斗=不入の免租地】説が正しいならば、701年の大宝律令以降、奈良、平安期につけられた地名であると想像出来ます。

wikipediaによると、農作物を納める当時の税制【租】について、

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田地の班給を受けた者は、原則として田租を納税する義務を負ったが、中には納付義務が免除される田地もあった。田租の賦課対象となる田地を輸租田といい、田租が免除された田地を不輸租田というが、口分田・位田・賜田・功田・郡司への職田が輸租田とされ、郡司以外の職田・寺田・神田のみが不輸租とされた。

租は、割り当てられた口分田の収穫量のうち3%を稲束で納めた。国衙の正倉に蓄えられ、地方行政の財源となった。
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と、ありますので、不入斗の土地は、神田扱いの不輸租田だということになります。




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