仏陀を見に出かけた

穏やかな顔である
下のブログは介護亭を開店したばかりのころのブログである

xxxもうひとつのリハビリ

滋子と私でひとつのリハビリ(訓練)を始めました。笑顔の訓練です。口を引き締め、笑顔を作る訓練をふたりで行っていると、・・・。滋子が元気な折、私自身は、笑顔を滋子さんにあまり見せていなかったような気がしました。滋子と一緒にほかの人と会った後で、「私と話すときも笑顔で話して」といつもこぼしていたのを思いだします。思えば、毎日仕事を楽しんで疲れて帰宅するとき、いつも滋子さんが車で出迎えに来ていました。笑顔でありがとうといえばよいのに、ついつい疲れた顔としごとの余韻を見せていたようです。
今二人で笑顔の訓練をしていると本当に滋子さんの笑顔で心が和みます。
発病後滋子が人と会うのをおっくうがり、その理由としては会話がうまくできないこともありますが、やはり、今までのような容貌でないことが大きな理由のようです。以前と同じように、笑顔で皆さんとお会いできるよう二人で訓練しています。

滋子さんの前で、いつも笑顔と心したころから、笑顔の訓練を行ってきた。
そのお師匠さんが仏陀である

そういえば、キリスト教
磔になった苦痛に満ちたキリスト像の前でひざまづく
不信心で不心得な私は
仏陀の前で
笑顔の訓練
宗教感の違いであろうか

なにせ、民衆のすべての原罪を背負って殉教し、神格化されたキリストを祈る宗教である。日本人には理解しづらい
宗教感であろう

私が敬愛する住持さん
タカクサさん
なにも思い煩うことはないですよ
あなたのなやみ
みんなキリストさんマホメットさんそしてお釈迦さんが背負ってくれていますよ

ありがたい教えである
特にわたくしのような
怠惰でいい加減な人間には

そういえば、聖書のマタイ伝にも、野の百合があったっけ

「なぜ着物の事でしんぱいするのですか?
   野の百合が、どうして育つのかよくわきまえなさい。
   働きもせず、紡ぎもしません。
   しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾っていませんでした。

世界の宗教
私のような怠惰でいい加減な人間には共通なのかもしれない