人との出会いは、本当に面白い
ロマリンダ大学に留学していたN先生から、今我々が設立した会社P-Careのボス松尾先生にロマリンダ大学の陽子線治療装置を日本で販売しないかという相談があったそうである。
以前我々の会社があった大森の居酒屋で
松雄先生が私の会社の同僚にその相談をし、このプロジェクトが始まったそうである。
その数週間後、元丸紅のひとを介して、新潟の村長が、陽子線治療センター導入に孤軍奮闘しており、ロマリンダ大学まで視察に行ったという話があったそうである
そして、私が参加した
それが5年前の12月末のことであった
その当時
私は、仕事を定時で終え、葛西で下車
病院
8時まで、
滋子さんのそばで
手を握り
声をかけていました
覚えているのは、今までありがとう
元気になって
その繰り返しだったと思っています。
滋子さんは声を発声できないので、ときどきうなずくだけでした。
そして、
浦安まで歩いて帰り、バスに乗って帰宅
そんな日々でした
葛西から浦安までの時間
できるだけ、滋子さんのこと、将来のこと考えないようにしていました
陽子線治療センターのことは、頭から将来の不安を吹き飛ばすのに、最適な
テーマでした
今ある基本構想は、この当時歩きながら作られたものでした。
まだまだ、未熟で、先の見えないプロジェクトであり、
まるで、滋子さんと私に明日のようでした。
そんな折、浦安橋からみる
ディズニーランドの花火
立ち止まり、花火の一瞬の輝きをみながら、もう一度
もう一度二人で
輝きたいと願っていました。
ロマリンダ大学に留学していたN先生から、今我々が設立した会社P-Careのボス松尾先生にロマリンダ大学の陽子線治療装置を日本で販売しないかという相談があったそうである。
以前我々の会社があった大森の居酒屋で
松雄先生が私の会社の同僚にその相談をし、このプロジェクトが始まったそうである。
その数週間後、元丸紅のひとを介して、新潟の村長が、陽子線治療センター導入に孤軍奮闘しており、ロマリンダ大学まで視察に行ったという話があったそうである
そして、私が参加した
それが5年前の12月末のことであった
その当時
私は、仕事を定時で終え、葛西で下車
病院
8時まで、
滋子さんのそばで
手を握り
声をかけていました
覚えているのは、今までありがとう
元気になって
その繰り返しだったと思っています。
滋子さんは声を発声できないので、ときどきうなずくだけでした。
そして、
浦安まで歩いて帰り、バスに乗って帰宅
そんな日々でした
葛西から浦安までの時間
できるだけ、滋子さんのこと、将来のこと考えないようにしていました
陽子線治療センターのことは、頭から将来の不安を吹き飛ばすのに、最適な
テーマでした
今ある基本構想は、この当時歩きながら作られたものでした。
まだまだ、未熟で、先の見えないプロジェクトであり、
まるで、滋子さんと私に明日のようでした。
そんな折、浦安橋からみる
ディズニーランドの花火
立ち止まり、花火の一瞬の輝きをみながら、もう一度
もう一度二人で
輝きたいと願っていました。