通勤途中
劇団四季の案内
李香蘭、異国の丘
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その文面 
戦後80年 戦争の悲惨さを風化させてはいけない
という文章
敗戦からすでに80年
戦争経験者はすでに多くの方が、彼岸
戦争の悲惨さの風化とは何を意味するのであろう
13年前、シベリアにいた
オムスクから始まり、トムスク、ケメロボ、ノボスビルスクなどを訪れた
当時外務省職員も足を踏み入れたことが無い土地であった。
ケメロボには、異国の丘に描かれた日本人の抑留地があったが、今は跡地は公園となっていた。地元の人もこのあたりという程度の記憶であった
その公園に、この地、日本人抑留地 という記念碑があった。みると厚生省
厚生省はここまで来ていたのかと、驚いた記憶がある。
マガダンに言った折(極東)、日本人抑留者が作った公会堂
正面に菊花紋をつけている
マガダンの人たちは、それが、天皇の紋章であることをしっていたが、見て見ぬ不利をしたとのことである。
いずれにしろ、今のシベリアには風化しようとしてもできない戦争の跡が残っているのだろう。
米国人にとって、戦後はベトナム戦争であり、太平洋戦争ではない
そんな内容のことを聞いたことがある。

いつか話したことがあるように、ボスニアヘルツェコビナへ滞在した折、
隣人どうしで銃を撃ち合い、自分に肉親をなくした国民たちをみた
米国の強制的和平により、みかけの平和が訪れていた。
でも、戦火の跡は、生々しい
地雷が完全除去できるのには、数十年かかるとのこと。
いずれにしろ、戦争は容易に風化しない
戦後80年 戦争の悲惨さを風化させてはいけない
という文章
戦争が風化するというのは、どういうことであろう
単に戦争経験者が無くなっていくということであれば、それは致し方ないことである。
戦争をしらない人が増えて、戦争の悲惨さを知る人がいなくなり、戦争の悲惨さを伝えていかなければならないというと
違和感を感じる
なんと傲慢な
戦争を知らない我々が、どんな戦争の悲惨さを伝えていくのだろう
かつて、杉田二郎が熱唱した 戦争を知らない子供たち
それが我々世代である
どうして、戦争の悲惨さを伝えて行けるのだろうか
小学生のころ、クラスメートが無くなった。
笠岡のことである
当時広島からの原爆被災のひとが疎開をしていた。
そのなかの女の子の書いた作文
今も心に残る
風化しない
私がなくなると、戦争がひとつ終わる
一度、劇団四季の 異国の丘を見に行こう
もし、その劇が心を打つものだとしても、
すでに、戦争は風化し、望郷のかなたに飛んでいき、かすかな残像が残っているだけと
実感することであろう
風化とはそんなものである