昔、2001年宇宙のたびという映画があった。スタンリーキュビックの普及の名作である。
家のローンを組むとき、シャレて 2010年ローンのたびなどといっていたこともあった。
この映画の印象的な場面は、イントロにあり、古代 穴式住居に住んでいた原始人が火という文明を得、その火が宇宙に向かって伸びてゆき、宇宙旅行の時代へ画面が転換するというシーンである。
人類が石器時代に得た文明が、宇宙時代へと進んでいくイメージである。
ひとつの文明が進化し、まったく新しい文明、時代へ我々を導いてくれるという連想である。
今日、原始時代の火に匹敵する文明を得た。携帯電話である。
電車の中、路上で、携帯電話に夢中になっている人を見ると、なんとなく、原始時代のサルがものめずらしそうに動かしている図を連想する。
かつて、石を磨いて、包丁や斧などの道具を作った。今は新石器時代で、同じ鉱物のシリコンから半導体を作り、IC文明へと進んできた。
スタンリーキュビックが描いたひとつの文明が、更なる文明をもたらすイメージからすると、携帯電話は次のどのような文明をもたらすのであろう。
現代人から見れば、2000年前の穴式住居に住む原始人が火を使いながら、さらなる進化を遂げているイメージは、動物園のサルの動きと同じかもしれない。
そう考えれば、50年、100年後、携帯電話で遊んでいるサル 失礼、若者たちを、未来人が見れば、同じように滑稽に映るのだろう。
注意しなければならないのは、かつて洞窟生活から現在まで、2000年かかった進化は、これから50年、100年で同じような進化を経験するということだろう。
今何故、携帯電話と戯れている若者をみて、サルを連想するかというと、携帯電話を暇つぶしに使っているように見えるからであろう。
電車の中、エスカレータに乗っているとき、バスをまっているとき、寸暇を惜しんで暇つぶしをしている。サルの無邪気で無心な、おどけたしぐさと若者の携帯電話のしぐさが同じように見える。いいかえると、サルが、たまねぎやニンニクの皮をむいでいる、そんな光景と若者の携帯電話文化がオーバーラップする。
携帯電話は我々の生活を大きく変え、個人的には、穴式住居人が発見した火と同じように我々の生活を一変する発明だと思っている。
緊急で連絡を取りたいとき、何かしら助けを求めるとき、世界中と交信出来る。たとえ、電車などの乗り物の中でも、緊急の連絡を受けることが出来る。
私は車内でも、マナーモードにはしているが、携帯電話で受信したときは出る。なぜなら緊急電話だからである。
家には滋子さんがいる。日中、介護をお願いしているひとから、緊急電話を受ける可能性が高い。実際に何度も経験している。遠く岡山には年老いた父がいる。息子や娘が埼玉に住んでいる。どんな緊急電話が入るか分からない。
逆を言えば、携帯電話から安心という恩恵を受けている。
30年後、50年後、我々はもっと多くの安心という恩恵や時間場所に関係なく、交信できるという恩恵を受ける。どんな世界なのであろう。残念ながら、その時代に私はいない。
穴式住居に住んでいる原始人と同じような、携帯電話を暇つぶしに使用している発展途上の時代しか見られない。
これから、どんなに進化するのだろう。
楽しみである。
一方、穴式住居的世界には碧壁している。
交差点や車内で、ひたすら携帯電話の画面をみている人々を見ていると、穴式住居で、火を囲んで原始人、ひたすら火のゆらめきと洞窟の壁面で踊る人の影絵、洞窟の外の深遠たる漆黒の闇の世界を連想する。
もう一度、スタンリーキュービックに映画を作ってもらいたい。
その前に
サルの惑星かな。
家のローンを組むとき、シャレて 2010年ローンのたびなどといっていたこともあった。
この映画の印象的な場面は、イントロにあり、古代 穴式住居に住んでいた原始人が火という文明を得、その火が宇宙に向かって伸びてゆき、宇宙旅行の時代へ画面が転換するというシーンである。
人類が石器時代に得た文明が、宇宙時代へと進んでいくイメージである。
ひとつの文明が進化し、まったく新しい文明、時代へ我々を導いてくれるという連想である。
今日、原始時代の火に匹敵する文明を得た。携帯電話である。
電車の中、路上で、携帯電話に夢中になっている人を見ると、なんとなく、原始時代のサルがものめずらしそうに動かしている図を連想する。
かつて、石を磨いて、包丁や斧などの道具を作った。今は新石器時代で、同じ鉱物のシリコンから半導体を作り、IC文明へと進んできた。
スタンリーキュビックが描いたひとつの文明が、更なる文明をもたらすイメージからすると、携帯電話は次のどのような文明をもたらすのであろう。
現代人から見れば、2000年前の穴式住居に住む原始人が火を使いながら、さらなる進化を遂げているイメージは、動物園のサルの動きと同じかもしれない。
そう考えれば、50年、100年後、携帯電話で遊んでいるサル 失礼、若者たちを、未来人が見れば、同じように滑稽に映るのだろう。
注意しなければならないのは、かつて洞窟生活から現在まで、2000年かかった進化は、これから50年、100年で同じような進化を経験するということだろう。
今何故、携帯電話と戯れている若者をみて、サルを連想するかというと、携帯電話を暇つぶしに使っているように見えるからであろう。
電車の中、エスカレータに乗っているとき、バスをまっているとき、寸暇を惜しんで暇つぶしをしている。サルの無邪気で無心な、おどけたしぐさと若者の携帯電話のしぐさが同じように見える。いいかえると、サルが、たまねぎやニンニクの皮をむいでいる、そんな光景と若者の携帯電話文化がオーバーラップする。
携帯電話は我々の生活を大きく変え、個人的には、穴式住居人が発見した火と同じように我々の生活を一変する発明だと思っている。
緊急で連絡を取りたいとき、何かしら助けを求めるとき、世界中と交信出来る。たとえ、電車などの乗り物の中でも、緊急の連絡を受けることが出来る。
私は車内でも、マナーモードにはしているが、携帯電話で受信したときは出る。なぜなら緊急電話だからである。
家には滋子さんがいる。日中、介護をお願いしているひとから、緊急電話を受ける可能性が高い。実際に何度も経験している。遠く岡山には年老いた父がいる。息子や娘が埼玉に住んでいる。どんな緊急電話が入るか分からない。
逆を言えば、携帯電話から安心という恩恵を受けている。
30年後、50年後、我々はもっと多くの安心という恩恵や時間場所に関係なく、交信できるという恩恵を受ける。どんな世界なのであろう。残念ながら、その時代に私はいない。
穴式住居に住んでいる原始人と同じような、携帯電話を暇つぶしに使用している発展途上の時代しか見られない。
これから、どんなに進化するのだろう。
楽しみである。
一方、穴式住居的世界には碧壁している。
交差点や車内で、ひたすら携帯電話の画面をみている人々を見ていると、穴式住居で、火を囲んで原始人、ひたすら火のゆらめきと洞窟の壁面で踊る人の影絵、洞窟の外の深遠たる漆黒の闇の世界を連想する。
もう一度、スタンリーキュービックに映画を作ってもらいたい。
その前に
サルの惑星かな。