日曜日、携帯電話がなった。
親戚の方からである。
今では遠くなり、冠婚葬祭の折、お会いするしかなくなっている。
でも、いまでも覚えている。
当時、父方の両親は、山陽道の矢掛という町にあり、夏休みなどには遊びに行ったものである。
私自身は母方の田舎のほうがなんとなく居心地が良かったようで、矢掛からバスで30分程度、離れた農家で夏休みの大半を過ごしていた。
覚えているのは、おじいさんが元気なころ、おじいさんに連れられて、矢掛の町を散歩していたことと、夜ねるとき、親戚のお姉さんの横で、母親のように抱きついて寝ていたことである。
といっても、6歳、7歳の頃である。
そのお姉さんからの電話である。
お互いに年をとり、昔のこうしたささやかな交流は、記憶のかなたにあり、電話を戴いた折、思い出す程度である。
矢掛という町は、高梁川の支流(不確か)にある宿場町であり、今でも街道沿いの宿場町の面影が多く残る町並である。
我が家の墓がそこにある。
父親も今は岡山に住み、墓参りもままならぬようである。今は母が眠っている。
親戚のお姉さんから、今年の夏突然電話をもらい、何事かと思ったら、墓掃除が行き届いてなく、荒れているとの話であった。
母が眠っている墓である。
私自身は、滋子さんの介護があり、行けないので、息子に代理を頼み、なんとか掃除は終えたようである。
あれから、2ヶ月、すでに草が生い茂っているとのことである。日曜日の電話はこのことであった。
父親に電話を使用かと思ったが、お父さんの性格を考えると、こちらが何か責めているように感じられても困るので、直接お寺に電話した。お住持さんに相談し、業者のひとに掃除を定期的にしてもらうよう手配した。
父親には当分知らせないでおこうと思った。いつか機会があったとき、それとなく知らせればいいと思っている。せめてそれぐらいは私のほうでしておこうと思った。
滋子に相談すると、うなずいた。
秋の夜は、しみじみと更けていく。しばし、母と、幼かったころの矢掛の生活を思い出した。