人生長く生きていると、感銘したり思わず納得したことばがある。
ここ最近は、後期高齢者医療保険の件で、街角取材に刺抜き地蔵の前で、おばあちゃんが
「こまったね 一生懸命正直に生きていくしかないのにね」
本当ですね。
明治の人の強さを感じる。
彼女たちは、60年前に政府にだまされた人たちです。そして今また。
人生は積分すれば同じさ
かつて、大学の同級生が飲み会で発したことば。積分するとは、人生をゆっくり生きようと(カーブがなだらか曲線)華やかに生きようと(カーブの勾配が急な曲線)その面積は同じという意味である。
至言である。わずか20歳の若造が言うことばか。いまだに到達できない域である。
かつて、子の至言をのたまった彼は何をしているのであろうか。
人を指差せば、残りの指は自分を指している
誰か忘れたが、著名な坊さんのことばであろう
年をとると、頑迷になり、人の非難を平気でするようになる。人差し指でひとをさすと、残りの指は、本当に自分を指している。
そうしないよう心がけよう。またそういう年齢だと自覚をしよう
浄玻璃の鏡
有名な書道家 相田みつお さんのカレンダーにあった
たしか30日の言葉であったと思う。人間死んで、地獄に行くと、閻魔大王の前にでて、、浄玻璃の鏡の前に立たされるそうである。浄玻璃の鏡はその人の人生を再現する鏡である。自分の恥多い、罪深い人生をもう一度見なければならない地獄だそうである。本当にきつい地獄である。
このことばの意味は、どうせ地獄で閻魔様の前で自分の人生をもう一度見なければならないのなら、後悔しないように思いっきりしなさいという意味だと私なりに解釈している。
爾来この至言どおり生きている。
滋子さんが倒れて、3年半。生きていくための至言は見つからない。ないのかもしれない。人の重荷を代わって担ぐことは出来ないのである。日曜日、妻と一日過ごす。
本当に実感する。朝起きて、おはようと挨拶。1時間半ほど、妻の世話と自分の食事。会社へ出勤するためのしたく。
そして会社。 夕方あるいは夜帰宅。ただいまの挨拶と同時に妻から車いすに乗りたいとの要望。とりあえずネクタイをはずして、一息つけて、車椅子の準備、移動、そしてテレビのチャンネルを妻の要望に合わせる。
それから、3時間ほど妻のそばで、お付き合い。
合計すると、わずか4時間か5時間のお付き合いである。それ以外の時間妻はベッドの上で、暮らしている。今日は雨だよと外の状況を伝える。妻の世界が広がってくれることを望む毎日である。こんなとき、支えてくれることばは見つからない。
ひとは自分を救えても、人は救えないのであろうか。もしそうだとすれば、こんな哀しい至言はない。
いっそことばは捨てようか。
日曜日。それでも妻と私の一日はおはようから始まる。