11月、神戸の姪が結婚するとのことである。我々夫婦が結婚した後、妻の姉の2番目の子供として生を受けた。愛くるしい子供であった。義理の兄の足が不自由であることから、常に寄り添っていた姿が印象的であった。その娘が、今度は伴侶にとって、最良の奥さんとなるのであろう。
そうあってほしい。
ここのところ、周辺で、結婚、離婚が続いている。
どちらにしろ、人生は前に進まなければならないし、その都度曲がり角があり、決着をつける必要がある。
そもそも愛とは、実体がないものであり、常に変化していくものだと思う。滋子さんとの間もそうであった。
中学の同級生が突然、可愛く見えても、結婚するとなると、また別のものであり、事実、まったく違った感情が突然目覚めた。
子供が生まれ、生活が板につくと、妻は妻であり、私は私という生活が続いた。子供たちが巣立ち、二人きりになっても、変わらなかった。常に愛していたと思うが、相手に何も求めていなかった。滋子さんはたくさん私に求めたようである。
よき夫として。そういう意味では私は妻を裏切り続けた。今もそうである。
でも人生のパートナーとして私には滋子さんが必要であり、滋子さんは切実に必要としている。
まさかこんな状況になるとは予想していなかった。むしろ放蕩の果て、私が、今の滋子さんのようになると信じていた。
妻は妻で、私は啓史より一日前に死ぬんだと信じていた。
私に見守られて死ぬそうである。
愛とは言い換えると、相互間の距離であり、近いと感じるか否かである。一定の距離でお互いを意識しながら、生きていくことであり、一緒になって幸せなんて、私には笑止千万である。
何がこの若造。幸せになりというのが同意味なのか理解しているのか。
一生幸せにと誓っているその先は、夫に裏切られ、姑にいびられ、舅のオムツのお世話、子供に裏切られる道がある。でも人生である。お金持ちであれ、そうでない人であれ、皆同じ可能性がるのである。
結婚という形で、他人が同じ屋根の下で暮らす。そして愛という距離感をはぐくんでいく。
それが喜びであり、楽しみなのである。
そうであってほしい。
20年前、愛くるしかった娘がお嫁に行く。
幸せであってほしい。故あって、結婚式には出席しない。したくない。
しかし、祝う気持ちは別である。
先輩が、祝いの気持ちにそえて、ひとこと。
そうあってほしい。
ここのところ、周辺で、結婚、離婚が続いている。
どちらにしろ、人生は前に進まなければならないし、その都度曲がり角があり、決着をつける必要がある。
そもそも愛とは、実体がないものであり、常に変化していくものだと思う。滋子さんとの間もそうであった。
中学の同級生が突然、可愛く見えても、結婚するとなると、また別のものであり、事実、まったく違った感情が突然目覚めた。
子供が生まれ、生活が板につくと、妻は妻であり、私は私という生活が続いた。子供たちが巣立ち、二人きりになっても、変わらなかった。常に愛していたと思うが、相手に何も求めていなかった。滋子さんはたくさん私に求めたようである。
よき夫として。そういう意味では私は妻を裏切り続けた。今もそうである。
でも人生のパートナーとして私には滋子さんが必要であり、滋子さんは切実に必要としている。
まさかこんな状況になるとは予想していなかった。むしろ放蕩の果て、私が、今の滋子さんのようになると信じていた。
妻は妻で、私は啓史より一日前に死ぬんだと信じていた。
私に見守られて死ぬそうである。
愛とは言い換えると、相互間の距離であり、近いと感じるか否かである。一定の距離でお互いを意識しながら、生きていくことであり、一緒になって幸せなんて、私には笑止千万である。
何がこの若造。幸せになりというのが同意味なのか理解しているのか。
一生幸せにと誓っているその先は、夫に裏切られ、姑にいびられ、舅のオムツのお世話、子供に裏切られる道がある。でも人生である。お金持ちであれ、そうでない人であれ、皆同じ可能性がるのである。
結婚という形で、他人が同じ屋根の下で暮らす。そして愛という距離感をはぐくんでいく。
それが喜びであり、楽しみなのである。
そうであってほしい。
20年前、愛くるしかった娘がお嫁に行く。
幸せであってほしい。故あって、結婚式には出席しない。したくない。
しかし、祝う気持ちは別である。
先輩が、祝いの気持ちにそえて、ひとこと。