1996年ごろのこと。当時、国際規格の会議がカナダのトロントであり、出席し、帰りにニューヨークでアルバートアインシュタイン大学のO教授にお会いすることになっていた。
不覚にも、トロントでの最終日、自転車事故で手に結構激しい打ち身を負ってしまった。めがねもこわれてしまった。しかたなく、持参していたサングラスをかけることにした。トロントで、打ち身のための冷シップを買おうとしたが、日本のような製品はなく、仕方なく、アイスノンをバンデージで固定するという、醜い格好となってしまった。トロントから、ニューヨーク。空港から1時間ほどかけて、セントラルホテル近くのオムニパークホテルに、着いた。13時ごろ。6時が約束の時間だから、少し休養が出来るとチェックインをしようとすると、3時からでないとだめと断られた。負傷の事情を説明したが、残念ながら、あっさりNO。
アフリカ系アメリカンのなまり。 NOUである。
2時間ほど、なんとか喫茶店でビールを飲みながら、過ごし、くだんのチェッキングカウンターに行ってみると、日本からの観光客のおばちゃんが列をつくっていた。これかだと大変だなと思いながら、先ほどのアフリカ系アメリカンのおねえちゃんにキーを頼むと、こちらのほうを見もしないで、あちらの列に並べとのたまう。何度いってもだめであり、さすがに、堪忍袋が切れてしまった。日本語で大声で怒ると、あわてて、コンピュータで確認して、キーをくれた。周りにいた老夫婦も同じ境遇だったのであろう、同じようにカウンターでキーを受け取った。彼らは、私の方をみて、よくやったとにっこり挨拶をしてくれた。気分はよかった。一方、さきほどの日本のおばちゃん連中。こちらは、黒いサングラス、手にはバンデージ。まさにやくざを連想したようで、冷たい視線をこちらに向けた。あわてて、エレーベーターに乗り込んだ。
当時の米国は、職場にマイノリティを何%か雇用しなければならない法律があり、その人間の出来、不出来とは関係なく雇用していた。雇われているほうも、仕事をやる気はまったくなく、こうしたトラブルが日常茶飯事におきていたようである。
当時おなじようなトラブルに何度も遭遇し、その都度日本語で対応した。英語だと迫力に欠けるためである。
次の日にボストン経由で、プリモスに着いた。プリモスは、英国人が始めてメイフラワー号で移民をしたといわれる地方で、まさにニューイングランドであり、英国系アメリカ人のもてなしを受け、同じアメリカでもこんなに違うのかと感慨にふけった覚えがある。

日本では単一民族であることから、マイノリティに対する考えが希薄である。勿論、ないことはなく、その代表がアイヌの人たちの問題であり、その解決はまだまだのようである。

たばこ税を増税して、1箱1000円に、これも、日本のぼっちゃん官僚がたばこを喫煙する人をマイノリティと思っているからであろう。あまり反論がないので、しめしめと思っているのかもしれない。
後期高齢者これもマイノリィティと思ったのでしょうが、とこらがマジョリティ。官僚諸君は忙しすぎて、外に出ないで、役所のなかに住んでいるから、確かに後期高齢者はマイノリティとしてしか、実感しないのであろう。
この反撃は、厳しすぎたようである。
我々はマジョリティなのか、マイノリティなのか、アメリカで経験した人種差別を、10数年経て、日本の国で、声が大きいか小さいかによる差別を受けているのかもしれない。