日曜日、久しぶりに娘が見舞いに来る。本当に久しぶり。
3匹のサル(失礼孫)を連れてくる。いっぺんに我が家はワイワイがやがや、擬音語のオンパレード。幸い、ジィジィと慕われているらしいので、まだよしとする。
この子達が問題なく健やかに暮らしているのを見るとほっとする。
同時に毎日。毎日この喧騒と自己主張のなかで暮らしている娘夫婦には、お疲れさん。
こちらの苦労が少し若ったかと思っている。
でも、娘と息子が小さいとき、苦労をした意識は少なかった。一生懸命疎だとぇ手いるとそんなものかもしれない。

さて、夕食にレストランへ。喧騒と 自己主張の移動である。妻はお留守番。
話のなかで、どうしてそうなったかは別として、お父さんは昔から、者に欲がなかったと言われた。
確かにその通りである。昔から、物を買うことが苦手で、選んで買うのが一番いやである。買うときは、できる限り時間を掛けないように努力する。まず、店員を寄せ付けない。
選んでよければ、そのとき店員を呼び、買う。値段交渉は苦手である。
選んで買うと、後に問題があったり、使わないで放置されている姿をみると後悔が募り、家にあると、それが続くのだから、やりきれない。反して、衣類は良く買う。特にネクタイとワイシャツ、靴下。
気にいらなければ、燃えるごみで簡単に捨てられる。
それだけの理由である。

話が、またまた飛んで、最近病院の設計を行っていて、院内物流をどのようにするか検討している。とどのつまりは、在庫を減らせばよいのである。在庫はどうしてあるのかというと、ショートすることを恐れているからである。病院は、ショートすると生命にかかわる危険性があるから、どうしても在庫が必要となる。でも、何日分というと、なんと2週間から1ヶ月分である。東京周辺で、1日あれば品物が届くこの時世にまったくずれている。
どうしてかというと、もしという不安からである。

考えてみると、地球上でも、同じような不安から、多くのものが生産され、保険と称して在庫されている。備蓄である。欧米や日本は国家戦略のもとに行われている。
もともと、自然界では、必要なものが必要なだけ生産され、そして消費されている。人間社会だけ、備蓄されている。発展途上国では、むしろ飢えている。
もし人間が、グローバリゼーションのなか、備蓄という不要な保険をやめ、必要なものを必要なだけ作れば、環境もずーと良くなる。なぜなら、生産活動が炭酸ガスを発生させ、化石燃料を消費するからである。人間が行う生命活動に必要な消費で排出する炭酸ガスは、呼吸だけである。
サミットが無事終わったらしい。評価は、別のひとに任せるとして、生産活動から炭酸ガスを抑制するのでなく、備蓄をなくすることから、削減してはいかがでしょうか。

やはり、不安ですか。
そうでしょうね。
でも、備蓄しても当てにならないものがたくさんありますよ。
年金とか。