鹿島から鹿骨、鹿から離れられない。
おおむね、土地に動物の名前がつく地名は、かつてひとが好んで住んでいた土地でない。合わせて、日蓮上人の足跡が多く、事実日蓮宗のひとが多いことから、江戸時代、寒村だったのだろうと思う。日蓮宗派の人が多いので、葬式の折、タイコをどんどこと叩きながら、念仏を唱える葬式は、圧巻である。
総武線に乗って、通勤していると下町平井、新小岩、小岩と過ぎていき、市川に入ると都会という感じがする。江戸川区、足立区は東京23区のなかでも、もっとも遅れた地域である。下水道完備も私が住んでいた頃(30年前)、江戸川区と足立区がもっとも遅れていた。
三遊亭円丈が、新作落語で足立区を埼玉県に戻せと面白、おかしく、語っていたが、笑えない話である。
もっとも、新小岩は一部が葛飾区、小岩は江戸川区と結構入り組んでいた。
しかし江戸川区政は結構面白い行政を行っていた。
まず、ボランティア活動が非常に進んだ区であり、今もその実績の評価は高い。
幼稚園は区立幼稚園を充実しないで、むしろ民間の幼稚園を積極的に支援し、区立であれ、私立であれ、親の負担を同じようにしている。区立を作るよりはるかに安上がりで効率的だそうである。
とにかく、この土地に10数年住んだ。その間幹子には弟が出来た。幼稚園、小学校、中学校と江戸川区で過ごした。妻は地域の人と楽しく過ごしたようで、今でも友人が多い。
私といえば、会社と家との往復で、地域との付き合いは殆どないに等しかった。
鹿骨を散歩していて子供連れの家族と出会うと、「あ、幹子ちゃんのおじちゃん」まだ30過ぎの私には過酷なことばである。笑いながら、会釈をして通り過ぎるけれど、そのひとがどこの人かいっこうに見当つかない。
おじちゃんかとがっくりしながら、鹿骨を歩いていると、園芸場の季節の花々が慰めてくれた。事実、入谷の朝顔市の朝顔はここから出荷されている。縁日の金魚も江戸川区からであり、江戸風鈴も江戸川で作られている。
東京の風物がここにあった。
とにかく、私は江戸川区での日々は、異邦人としてであり、せいぜいおじちゃんであった。
もっとも、この状況は、鎌ヶ谷、新浦安と移っても同じである。いっこうに進歩しない。
妻や子供たちはしっかり根を下ろしたようである。