土曜日、M国会議員秘書佐藤さんの肝いりで、アルバニア大使家族と清水に寿司を食べに行った。
私は息子を連れて行った。先月、息子が妻のためにとせんたく機を買ってくれたことに対するお礼と、私の仕事関係を少しでも理解してもらえばと思ったからである。
父親というのは、息子には自分の仕事というか生き様を理解してほしいというのは本音である。
いずれにしろ、欲張りなことである。
清水に寿司屋さんに行く前に、清水の老舗追分羊羹のお店に行った。徳川慶喜が大政奉還後、静岡に蟄居していたおり、よく食べに行ったそうであり、床の間には、かれの書が飾られていた。線がやさしい書であった。大きな変遷を経験し、達観した人の書なのであろう。やさしい書であった。
老舗の亭主と婦人が応対してくれ、本当に心温まるひと時であった。江戸時代から続く、庭を見ながら、羊羹と静岡茶を楽しんでいた。穏やかな時間が過ぎて言った。
美味しいものを作り続ければ、お客様は着てくれる。単純で明快な真理であり、これから続くこのお店のこころである。
日本のよさがまだ残っていた。
子供に生き様を理解してほしいというのは、欲張りである。
しかし、老舗がこうして、時代に流れの中を生き残っていき、その技術、伝統を伝えていくということは、正に、親から子供へと伝えていくことであり、実に欲張りなことである。
しかし、そのための努力、家族ぐるみの精進の賜物である。欲張って、伝えていく。本当にすばらしいことである。
前に家庭で父親の権威は必要かというアンケートに、中国、韓国では90%以上であり、日本では60%台だったと思う。父親自体がそう思っていない。
親から子へ伝えることがなくなったのか、そういう欲がなくなったのか。
もうすこし、我々は欲張りになってもよいかもしれない。