22歳。結婚して、鹿島へ島流し。2度引越しを重ね、幹子が生まれるときは、5階建て社宅の5階。
仕事が終わり、社宅の階段を上るとき、3階でほっと一休み。
鹿島の荒涼とした風景に、自分の境遇に実感しながら、我が家にたどり着く。
5階建ての5階へたどり着くのはかなりきついようで、夏に蚊も入ってきません。
階段を上ってくるようですが、3階か4階で、食糧を確保するようで、登ってくることはありません。3階の階段で戯れている蚊は良く見かけました。
唯一、訪れるのは、鹿島の地を這うような風に舞う鹿島砂漠の砂。ベランダは砂の山が出来ます。
妊娠して、7ヶ月、8ヶ月になると、大きなお腹。このお腹と片手に買い物籠、もうひとつの腕には私の好物の西瓜。大きな荷物3つもって、5階まで上がるのですから、本当に大変でした。
やがて、歩くようになった幹子が、掛け声を掛けながら、上がっていく姿がありました。
子供の成長が正に生活でした。
一方私はというと、社会人として何とかなってたのでしょうか。疑問符だらけでした。
妻は社宅のおば様たちに可愛がられたようで、何とかの会、何々の会と集まりがあるたび、大きなお腹を抱えて、とび回っていました。東京での生活、闘病する前日まで飛び跳ねていました。
妻にとって、鹿島は一流会社のだんなを持って、暖かい家庭という夢を持っていたようで、ある意味では叶っていたのかも知れません。
でも、鹿島は遠すぎました。寂しすぎました。
誰かの歌にあったように、
思えば遠くに来たもんだ、
この道、、、、
本当にそうでした。

子供たちが大きくなってくると、ふと鹿島が懐かしくなり、二人で出かけました。
クラレの工場。その先の知手団地。坂を登ると、独身寮があり、その先は砂漠。今は多くの住宅が建っています。
鉄道も通じているようです。
町並みも変わりました。住んでいる人はもっと変わっています。
知手の坂の上から、ふと見下ろすと、懐かしいコンビナート。二人の青春時代でした